日光道中 第2回 その4 泪橋~小塚原刑場跡~回向院~浄閑寺 | 街道歩き

街道歩き

2022年東海道五十三次完歩後、いろんな街道歩きをしています。

2023年2月19日

 

よしわら大門から引き返し、見返り柳から土手通りの左側の古い建物前に、行列が!

 

赤い矢印は「土手の伊勢屋」創業128年の老舗天丼屋

 

その隣は「桜なべ中江」創業117年の老舗桜鍋(馬肉) どちらも古いビックリマーク

↑その先ブルーの矢印は「あしたのジョー」が立っているところ(見えないかあせる

矢吹丈をモデルにした「立つんだ像」が立つ。

この辺りは山谷と呼ばれたドヤ街で、物語の舞台となったところ。

 

日の出商店街の「シャトレ」でランチしようと戻ってみたが、

↓まだ満席で入れず悲しい

吉野通りに出ると、

Yさん「ここの珈琲はすごく美味しい、何故山谷にあるのかわからないけど」と絶賛拍手

↓「バッハ」の珈琲飲んでみたいコーヒー

↓「バッハ」の先、この店に入る。

値段も安く、メニューがいっぱいで迷う。

カツ丼、鳥カツ定食、カツ煮定食をそれぞれ注文して食べる。

 

ご飯の量が多いので減らしてと頼むと、

一度出したものは廃棄することになっていると言われてしまう。

いろんなトラブルがあるからだろうな。

 

味付けが濃くて懐かしい味で美味しい、お腹が減っていたのでガッチリ完食びっくりマーク

 

若い男女が色々食べたり飲んだりして大声で談笑し生ビールラーメン

奥の席では常連さんらしいおっちゃん二人連れが唐揚げや餃子をつまみに、飲んでいた。

 

ここは「山谷」だと言われ、「そうなんだ~えー」と納得した。

 

簡易宿泊所が軒を連ねていて1泊2200円~や連泊、月泊があり、日雇い労働者用だという。

 

でも、今はバックパッカーや外国からの旅行者などの利用が多いらしい。

 

簡易宿泊所は宿泊する場所を多数人で共用する施設で、トイレや浴室、洗面所などが共用。

写真:周藤卓也@チャリダーマンさんよりお借りしました。

3畳一間でテレビもあって、2200円/1泊

泊った人の感想ではトイレも、洗面所も、風呂場も古いけれど、きれいとのこと。

コインランドリーもあって、至れり尽くせり。

 

 

泪橋

泪橋のすぐ北には「小塚原処刑場」があり、南西には「吉原遊郭」

処刑される罪人や身売りする遊女などと、身内の人々が涙ながらに別れた場所から、

泪橋と名付けられたのではないかと言われている。

 

この辺りは通称「山谷」と言われるところ。

大通りから一本中に目を向けると、こんな感じ。

東京comさんより写真お借りしました。

でも、ドヤ街と言われた荒んだ場所ではなく、それなりに生活感のあるところだった。

 

居酒屋の前の張り出しにビニールシートで囲って、おいちゃんたちが酒盛りをしていた生ビール

そういう居酒屋がいくつかあった。

 

南千住駅貨物線

跨線橋を下りると、

延命寺

そこには、誰かと話したくてたまらない風のオバアチャンがいて、話しかけてくる。

ここの住職一族らしい。

首切り地蔵

寛保元年(1741)無縁供養のために造立された。

小塚原刑場跡

延命寺の場所に刑場があった。

処刑された屍体は放置され、一帯には死臭が漂っていたという。

 

小塚原回向院

浄土宗のお寺。
回向院のあたりは、江戸時代には、小塚原といわれ、品川の鈴ヶ森とともに処刑場があった。


寛文7年(1667)に本所の回向院が、牢死者や刑死者等を供養するために、この地に回向院を開創した。

 

 

細長い墓所に墓石がきれいに並んでいる。一般の墓地とは完全に分けられている。

↓史跡エリア

↓田中光顕歌碑

田中光顕は、勤王運動を経て明治政府に出仕。貴族院議員、宮内大臣等を歴任した。

政界引退後は、維新烈士の顕彰に尽力した。

「偲ぶけふかな 花とちり 雪ときえにし桜田の ますらたけを」

 

安政の大獄で処刑された人々の墓所が一番奥にある。

↑安政の大獄で刑死した吉田松陰の墓石。

松陰は、安政6年(1859)10月27日伝馬町の獄舎で打首となり、ここ回向院に祀られた。

 

その4年後、門弟高杉晋作、伊藤博文らによって、頼三樹三郎、来原良蔵などと共に、

長州藩の下屋敷のあった世田谷区若林に改葬された。

↑松陰の右横が頼三樹三郎(頼山陽の子)の墓石。三樹三郎の号「鴨崖」の名が刻まれている。

後、松陰と一緒に松陰神社に祀られた。

 

明治15年には、彼の旧藩士門弟らが中心となって墓の東側にささやかな堂を建てて創建した。

それが松陰神社である。

 

ここには墓石のみがあるだけ。


橋本左内墓所。

安政6年10月7日、江戸伝馬町の獄内において死刑に処せられた。

 

その後、文久3年(1863)この墓石は遺骸とともに福井に移され、善慶寺の橋本家墓所に改葬されたが、明治26年その墓石のみ、再び回向院のもとの地にもどされた。

 

またここも墓石のみ。

 

「蘭学を生んだ解体の記念に」

↑杉田玄白や前野良沢らがここで刑死者の腑分けに立会い、それをきっかけに「解体新書」を翻訳したと言われている。

 

「観臓記念碑」

本堂入口右手に建てられている。

 

「明治維新殉難志士墓所」

墓碑26基が祀られている。年齢、出身地も様々な人たち。

 

小塚原回向院烈士遣蹟保存会が、殉難烈士の墳墓が荒廃している状態を嘆き、渋沢栄一を会長として、大正8(1919)年に発足。

 

 

↑左「鼠小僧次郎吉」 大名屋敷専門の盗賊。本来墓は墨田区の回向院。
中 「片岡直次郎」  江戸後期の小悪党。
右「高橋お伝」   明治初期の稀代の殺人悪婦。

 


磯部浅一は、二・二六事件の計画・指揮に当たり、昭和12(1937)年に銃殺刑に処された。

 

桜田門外の変の実行隊長だった水戸藩士、関鉄之介の墓や、その愛人の墓や顕彰碑など、

見落としたものがあり、またの機会にじっくり見たい。

 

吉展地蔵尊

昭和38(1963)年に起きた誘拐事件で亡くなり、

同じ荒川区の円通寺墓地で遺体が見つかった、村越吉展ちゃん(4歳)の菩提寺。
吉展ちゃんの冥福を祈り、入口付近に吉展地蔵尊がある。

 

東京オリンピックを控えて高度成長期の真っただ中に起こった誘拐事件ピリピリ

光と影が色濃く混沌とした時代だった。

全国の人が吉展ちゃんの無事を祈っていたけれど。

こうしてお地蔵様になって皆を守ってくれているお願い

 

浄閑寺

日光街道からは外れるけれど、ここはどうしてもお参りしたいお寺。

 

安政2年(1855)大地震の際に、多くの新吉原の遊女が投げ込むように葬られたことや、

吉原で引き取り手のない遊女の死体を投げ込むように浄閑寺に担ぎこんだことから

「箕輪の無縁寺」「投込寺」と呼ばれるようになったと言われている。

 

新吉原総霊塔

現在の塔は昭和4年に寛政5年(1793)以来の供養塔を改修し、形も改めたもの。

新吉原創業から廃業まで江戸、明治、大正、昭和と380余年間に葬られた遊女、遊女の子、

遣手婆(やりてばば)などの遊郭関係者や、安政、大正両度の大震災の死者を含めた推定数は2万5千に及ぶ。

 

「生まれては苦界 死しては浄閑寺」(花又花酔の川柳)

 

永井荷風筆塚

昭和38年5月18日建立。

荷風死後、荷風を敬愛する文壇人有志、谷崎潤一郎や森鴎外の長男である於菟らによって建立された。(設計・谷口吉郎)

 

荷風の2本の歯と常用していた小筆が1本納められている。

 

詩碑

『偏奇館吟草』より「震災」の詩を掘った御影石の詩碑。

 

どんな詩か意訳してみました。

 

今の時代の若者よ

私は明治の子なのだ

新しい芸術が到来し、明治の文化は葬られ

私の青春の夢も消えてしまった

団十郎、菊五郎、福地源一郎、一葉、尾崎紅葉、斎藤緑雨、円朝、紫朝、皆去って、

私を感激させる泉は枯れてしまった

 

ある年、大地がにわかに揺らめいて

火は都を焼いた

上田敏先生はとうにお亡くなりになり

鴎外先生も亡くなられた

 

江戸の文化は煙となり

明治の文化も灰となってしまった

 

今の時代の若者よ

わたしに語ってくれるな、これからの世の芸術を

曇った眼鏡を拭いたとして

私は今何を見たらいいのだろう

私は明治の子なのだ

過ぎ去った明治の子なのだ

 

大正12 年9月1日に発生した関東大震災を、荷風は自宅で体験した。

その後の時代の変化に対する荷風の実感が現れている。

 

永井荷風にとっての明治とは、江戸文化の残る明治だった。

歌舞伎も落語も文学も、感動の源だったものすべてが消え去ったことを

『わが感激の泉とくに枯れたり』と嘆いた。

 

儚い生を終えた遊女たちのお墓の前に、

明治とともに滅んでゆく思いを詠んだ詩碑が飾られている。

荷風の墓は雑司ヶ谷霊園にある。

彼は生前から没後は浄閑寺に葬って欲しい願っていただけに、この計らいを喜んだに違いない。

 

ひまわり地蔵尊

昭和57年12月11日建立。

山谷で働き、連帯し支え合っている労働者の死後の安心と安らぎのために、建立された。

 

地蔵尊が持っているひまわりの花はひまわり

太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇い労働者のシンボルといえる。

 

新比翼塚(右側)

比翼塚とは、相思の男女を一緒に葬った塚。

明治13年10月1日、品川楼で情死した遊女・盛紫と内務省の警部補・谷豊栄の二人のために

寄進・建立された。

 

荷風の『里の今昔』に、浄閑寺のことが書いてあります。

 

「箕輪の無縁寺は日本堤の尽きようとする処から、右手に降りて、畠道を行く事一、二町の処にあった浄閑寺をいうのである。

 

明治三十一、二年の頃、わたくしが掃墓に赴いた時には、堂宇は朽廃し墓地も荒れ果てていた。この寺はむかしから遊女の病死したもの、または情死して引取手のないものを葬る処で、安政二年の震災に死した遊女の供養塔が目に立つばかり。そのの石は皆小さくかつらにわれていた。

その頃年少のわたくしがこの寺の所在を知ったのは、宮戸座の役者たちが比翼塚なるものに香華を手向けた話をきいた事からであった。

新比翼塚は明治十二、三年のころ品川楼で情死をした遊女盛糸と内務省の小吏谷豊栄二人の追善に建てられたのである。


 日本堤を行き尽して浄閑寺に至るあたりの風景は、三、四十年後の今日、これを追想すると、として前世を悟る思いがある。

堤の上は大門近くとはちがって、小屋掛けの飲食店もなく、車夫もいず、人通りもなく、榎か何かの大木が立っていて、その幹の間から、堤の下に竹垣をし池を穿った閑雅な住宅の庭が見下された。

左右ともに水田のつづいた彼方には鉄道線路の高い土手が眼界をっていた。

そして遥か東の方に小塚の大きな石地蔵の後向きになった背が望まれたのである。」

 

・荷風は若い時に、宮戸座の役者に「新比翼塚」のことを聞いて関心を持つようになった。

 

・浄閑寺は荒れ果てて、遊女の供養塔が目立つばかりで、他の墓石は蔦に覆われていた。

 

・日本堤の上は大木が立つばかりで何もなく、鉄道線路の向こうに小塚原の首切り地蔵の背が見えた。

 

荷風は風景の描写が上手く、明治の昔が蘇ってくるようです。

 

小夜衣供養地蔵尊

元々は境内にあったが、今は山門前に立つ。

 

京町丁目の「四ツ目屋善蔵」の抱え遊女、小夜衣(さよぎぬ)は女主人に放火の罪をきせられ火あぶりの刑になってしまう炎

ところが、一周忌、三回忌、七回忌のたびに廓内から火が出て、「四ツ目屋」はいつも全焼。

ついに潰れてしまうダウン

しかし、廓内の人々が集まって霊を慰める仏事を行ってからは年忌ごとの火事はなくなった。

 

「悪い部分をなでるとよくなる」と言われていて、お参りの人が絶えないそうですお願い

 

この辺りで15時、もう少し先へ行く予定走る人

つづく・・・・