第49回 草津宿 その2 黒門跡・矢橋道標・平清宗胴塚・萩の玉川跡 | 街道歩き

街道歩き

2022年東海道五十三次完歩後、いろんな街道歩きをしています。

2022年11月10日晴れ

 

立木神社を出て少し歩くと、草津川にでます。

その左手前に

黒門跡

草津宿の京口。文化14年(1817)に黒門が設けられました。

白い点線の内側には草津川が流れていて、多くの家が移転したことがわかる写真です。

草津川に架けられた「矢倉橋」

 

14時を過ぎました。この先を歩きます走る人

↓かつての矢倉立場(東海道と矢橋街道の分岐点)に立つ

矢橋道標

右手に「姥が餅屋旧跡」がありその前に道標がありました。

その名の通り「姥が餅」が名物の店でしたが、昭和13年に廃業してしまったらしく、
現在、同地には「瓢泉堂」という瓢箪(ひょうたん)専門店が営業していました。

 

道標には「右やばせ道 是より廿五丁 大津へ船渡し」と書いてありました。

 

広重 草津宿 名物立場

 

往来の賑やかさと、街道きっての名物「姥が餅屋」が描かれています。

 

右の矢印が「道標」です。

「道標」の右側の道が矢橋の渡しへ向かう道です。

「姥が餅屋」の前の道が瀬田に向かう東海道です。

 

京へと向う旅人は、このまま東海道を瀬田へと歩いて向かうか走る人

矢橋道を通って矢橋の渡しから舟に乗って大津へと向うかの波思案の分かれ目でもありました。

広重 矢ばせの渡口 琵琶湖風景

矢橋の渡しから舟に乗った方が近道になるし、何しろ舟なので歩かずに済みますが、

風雨が強い日や、逆に風のない日などは舟が出ない事もあり・・・・・

 

瀬田に廻ろか矢橋へ下ろか ここが思案の姥が餅

 

武士(もののふ)の 矢橋の舟は早くとも 急がば回れ 瀬田の長橋

 

などと当時の歌に詠まれました。

「急がば回れ」の格言は、この歌がそもそもの語源となっているそうです。

 

稲荷神社

先を急いでいたので、鳥居の写真を撮っただけで通り過ぎました。

 

国道に出て、「矢倉南」交差点を渡り東海道に入ります。

野路一里塚跡

上北池公園に「一里塚碑」があります。日本橋から119里目。

一里塚跡から道路を渡り、東海道に入ります。

教善寺

山門、鐘楼が立派、中には入りませんでした。

 

江戸時代前期、当地の念仏篤信者・遠藤権兵衛が剃髪し僧となり、敷地と田畑一町歩(約3000坪)を寄進、開山上人に清誉浄雲和尚を迎えて建立しました。

以来、49代に渡って法灯が連綿と継承されています。

石とツツジの石垣のある大きな家。「遠藤」の表札、遠藤権兵衛家。

平清宗胴塚

壇ノ浦合戦で生捕りになり斬首された平清宗を祀る塚です。

東海道沿いの石塀の上に写真と説明板がありました。

 

清宗は父・宗盛とともに源平最後の合戦・壇ノ浦の戦いで源義経に捕らわれ、鎌倉から京都への帰路この地で首を落とされました(享年17歳)。

首は六条川原に晒されましたが、当地に胴が残ったため胴塚が建てられ、約820年を経た今でも遠藤家一角に保存供養されています。

 

49代に亘って教善寺を継承している「遠藤家」には篤信家の遺伝子が流れているのでしょう。

 

「遠藤権兵衛家」の広い敷地の中に塚が祀られているようですが、「立ち入り禁止」でした。

 

以前は、お参りに来た人のために案内板や記帳台までありましたが、自宅の敷地を開放することで不具合が重なったのかもしれません。

 

でも写真と説明板だけでも表示してもらってありがたいです。

 

公開していた当時の写真が見られます。清宗墓前祭も行われていたようです。

清宗塚<滋賀県草津市> | 源平史蹟の手引き (sakura.ne.jp)

清宗墓前祭 | 源平史蹟の手引き (sakura.ne.jp)

新宮神社の鳥居と社標

床屋にリフォームした旧家

こういうリフォーム、いいなグッド!とパチリカメラ

野路在郷軍人用地跡碑

普段は一般の国民として生活をしながら、 いざという時には戦場に赴かなければならない人々のことを「在郷軍人」と言っていました。
地域での防火訓練や竹槍訓練の指導等も行っていたので、その訓練用地だったのでしょうか?

子守地蔵

 

江戸時代に九州肥後の殿様が、参勤交代で草津方面に行列しているとき、

道脇に土下座していた母親真顔と四歳の男の子真顔の前に一匹のカブト虫が飛来し、

それを捕ろうとして行列を乱してしましました気づき

 

すると侍が『おのれ百姓の分際で、殿のお籠先をけがす不届きものめ』といって、腰の刀を抜くが早いか、いきなり二人を切殺してしまいましたナイフ
 

村の人々が哀れな二人の供養のためにと、お地蔵さんを刻みその辺りに祀り『子供を守ってくれる子守地蔵や』と言って永い間お供物をあげて供養する習わしが今なお続いていますお願い

 

この辺りはお地蔵さんがとても多かったのは、そんな言い伝えがあるからですねスター
 野路萩の玉川跡

集落の南はずれの旧東海道沿いに、諸国六玉川の一つ「野路の玉川」古跡があります。

六玉川とは古来、歌枕として詠まれた六ヶ所の玉川の一つで、かつてここで文人墨客たちが和歌を詠む詩想を呼び起こす名所だったようです。

玉水のような清水が今も湧いていました。

  

萩の玉川跡の隣とその先に「地蔵祠」があり、地域の人が大切に祀っていることがわかります。

 

以上「野路町内会」のホームページを参考にさせて頂きました。

町内会の活動が活発です。

暮らし全般から防災活動、野路町の歴史まで調べて、地元愛に溢れています飛び出すハート

 

それは野路町を歩いている旅人にもよくわかりましたスター

参照詳細1|野路町内会(公式ホームページ) (noji-city.com)

 

その3へつづく・・・・・