2026年4月6日(月)晴れ

 

①よりつづき~

 

去年は、野火止用水をたどって新座市の「平林寺」まで行きましたが、

その先は暗渠になり、断念しました。

新河岸川を越えた「いろは樋」のことを知りたいと思っていたので、

今日の「志木の春を歩く」に申し込み、参加しました。

 

いよいよ、野火止用水追っかけ旅の最後合格
復元展示施設の図と模型

「いろは樋の模型」を見ながら、リーダーの説明を聞きました。

 

野火止用水を、新河岸川対岸の宗岡地区への灌漑用水にするため、

巨大な架け樋を設置。

いろは樋の仕組み図、サイフォン式送水

坂の上に設置した小枡に水を貯め、地下に向けて設置した木の樋で大枡まで勢いよく流し込み、その勢いでいろは樋を通して新河岸川を越える。

水をいったん高い所に上げてから低い所に移すサイフォン式となっている

いろは樋模型と自然

登り竜の模型。野火止用水はここを上って新河岸川を越えていくバイバイ

いろは樋模型と新河岸川の船

樋は船の通行を妨げないように、川面から4~5m高いところに架けられ

48個の木樋をつなぎ合わせたことから「いろは樋」とよばれ、

全長230Mに及び、百閒樋と言われた。(写真・志木市観光協会)

 

埼玉県志木市、歴史遺産と自然を訪ねる散策

明治時代に設置された煉瓦作りの、取り入れ口側の大枡。

明治31年4月竣工と刻まれている。

志木市「文化財」看板と街並み

使用された鉄管はベルギー製と英国製をつなぎ合わせたもの。

 

 

埼玉・志木 新河岸川と野火止用水を巡る

「引又河岸跡」

江戸時代はじめから、川越と江戸を結んだ舟運が盛んで引又河岸ができ、

奥州街道などの道が通る引又宿は大変にぎわった。

 

明治7 年(1874)以降は志木河岸。

河川改修と鉄道の発達により、昭和5年にその役目を終えた。

 

旧村山快哉堂、志木の歴史的建造物

「村山快哉堂」

明治10年(1877)に建てられた、家伝薬を売る薬屋。

移築復元されました。

柳瀬川沿いの桜並木と菜の花畑

新河岸川と柳瀬川の合流地点。蟇俣=かえるまたの形。

 

いろは樋を通ってここを越えて行った野火止用水バイバイ

対岸の宗岡地区を潤しました。

 

河川の桜と、河原で遊ぶ子供たちを見ながら、お弁当を広げました。

久しぶりのお弁当作りにワクワクしたというK子さんラブラブ

春の空の下で食べるお弁当🍙美味しかったですルンルン

 

柳瀬川沿いのソメイヨシノと新緑

ウワズミザクラ

これからブラシのような花が咲くそうです。

 

敷島神社の本殿と桜、参拝客

「敷島神社」

志木の田子山富士塚と桜

「田子山富士塚」(敷島神社境内)

古墳といわれてきた「田子山塚」の上に盛り土をして築造されました。

富士山から運んだ溶岩などが置かれ、細く険しい登山道を登りますニヤリ

志木の春の桜と柳瀬川沿いの景色

富士山頂上からの眺め目  

 冬の晴れた日には富士山の遠望が楽しめるそうです富士山

年間を通じて、「大安」・「友引」・「特別入山日」は原則として入山できます。

この日は「友引」でしたグッ

志木「いろは樋」と歩く野火止用水

グループリーダーのMさんをまん中に記念撮影カメラ

 

志木 水車 遺産

「上の水車跡」と「道標」

本町通り(昔は市場通り)に野火止用水が流れていました。

上の水車、中の水車、河岸の水車(下の水車)と呼ばれる3台の水車があり、

用水で水車をまわし、精米・粉ひきなどをおこなっていましたが、

昭和40年(1965)に暗渠となり、その役目を終えました。

 

江戸時代、松平信綱や玉川兄弟等が、江戸の飲料水として玉川用水を完成させた褒美として分水が認められ、40日間で野火止台地に引き込み、その末流を引又(志木市)から新河岸川に注がせた流路を歩き、野火止用水の歴史をたどってきました。

 

わたしの「野火止用水追っかけ旅」=記録ノート

 

 

 

 

小川監視所で玉川上水から分岐された野火止用水を追いかけ、

平林寺の「伊豆殿堀」まで辿った用水の

最後の役目を見届けることができて、大満足でした飛び出すハート

 

今日の案内をしてくださった「森の山歩くらぶ」のみなさん、

ありがとうございましたびっくりマーク