2026年6月4日(木)
2024年9月頃、NHKラジオドラマで、澤田瞳子作『星落ちて、なお』を聞く。
「画鬼」と呼ばれた天才絵師・河鍋暁斎の娘・とよが、
父という大きな「星」が落ちた後も、自らの光を求めて描き続け芸術家として成長していく物語。
とよ(河鍋暁翠)は後に女子美術学校で教授を務め、後進の育成にあたった。
西田さんと竹下さんの「ふたり芝居」で描かれた「暁斎」に興味深々![]()
また、日光街道の古河宿を歩いた時に(古河は暁斎の生誕地)
暁斎の絵と説明板があり、「画鬼」を彷彿とさせる絵に驚き、ますます興味が深まる。
この度やっと、暁斎に会えることになり、
サントリー美術館で開催中の「河鍋暁斎の世界」へ。
河鍋暁斎コレクションを誇るイスラエル・ゴールドマン氏の所蔵作品約100点を展示。半数以上が日本初出品となる貴重な作品群。
幕末から明治にかけて活躍した暁斎は、歌川国芳、狩野派などの多様な技法を習得した後、独自の画風を確立。
神仏画、戯画、動物画、妖怪画——ありとあらゆるジャンルを、
烏や虎、象、鬼、蛙の曲芸、天狗、七福神、幽霊、踊る骸骨、閻魔など、
圧倒的な画技とユーモアを交えて描き分けた。
従来の日本画の持つ、重厚で権威的な「床の間」に掛けるための絵は少なく、
バイタリティ溢れる大衆の好む絵が多かった。
会場内一部写真撮影可能。
《地獄太夫と一休》 一幅 明治4~22年(1871‒89)
《猫と鯰の頭》 一幅 明治4~22年(1871‒89)
《猫又図》 一幅 明治4~22年(1871‒89)
暁斎は猫を飼っていたので、よく描いた。
《百鬼夜行図屏風》 六曲一双 明治4~22年(1871‒89)
ユーモラスな鬼たち
「画鬼」の愛称のある暁斎は鬼に対して特別な思いを抱いていたのだろうか。
暁斎の絵日記には目が釘付けになった![]()
『河鍋暁斎絵日記 江戸っ子絵師の活写生活』河鍋暁斎記念美術館編 より
日記帳はかなり劣化が進んでいた。
うまい!おもしろい!まめな描写!
まさに時代風俗資料![]()
暁斎が生きた時代の雰囲気が伝わってくる。
描かれた人物がそっくりで、ユーモラスな似顔絵であふれている。
来訪者や訪問先、その日に描いた作品、弟子の学習状態、
出納帳のように支払いと収入の記録、
男性を老人から若者まで4種類のハンコ、外人をハンコにして押してある。
「日本近代建築の父」と言われたジョサイア・コンドル。
暁斎の弟子になり「暁英」という画号を授かる、21歳年下の友人だった。
その「コンデール君」も日記によく登場している。
暁斎の、明治新政府・薩長政権への反骨精神は、戯画として噴出し、
不敬罪として刑に処さられる原因ともなった。
しかし、来日外人との交流で、海外の知識が加わり、保守的な考えにとどまることなく、柔軟な画域へと広がったように思う。
明治21年(1888)東京美術学校の教官に任じられた狩野芳崖が亡くなり、
岡倉天心とフェノロサが暁斎に教官を依頼するため来宅。
しかし、暁斎は体調がすぐれず床に臥せっていた。
(若し、暁斎が日本画教官に就任していたら
旋風を巻き起こしただろうか
)
翌22年4月26日胃がんのため死去、59歳。
壮年期であり、まだまだ描いてほしかった![]()
↓ここでも河鍋暁斎展が開かれるので、足を運んでみたい。








