成人の日・・・❓ 芥川龍之介作品に「河童」というものがあります。カッパとは、空想動物です。それは寓話の話しの中で、生まれてくる 赤ちゃん に・・?「オーィ! 、お前はこの世に生まれてきたいか~」と呼び掛けます。その子が生まれてきたい場合「生まれたいよぅ」と答え、遠慮する場合は「辞めとくよぅ」と答えます。すると膨らんでいた母河童の腹がしぼむのです。現実の話しではありませんが、何か心に残る話です。われわれ人間は、作者の描いた河童のように、この世に生まれたいかを問いかけられて生まれてきたのではありません。それを問われることなく、物心ついたときには、この世に生れていました。そして、そのまま生きてきました。成人の人は、それを自覚するためにあるのではないのでしょうか・・・❓
河童が既に"胎児"の時に尋ねられたことを、人間は二十歳になって自らに問いかけるのです。もしそれをせずにそのまま惰性的に生きていくなら、その人は河童に後れをとることになります。
自分は他人とどう違うか・・・❓ すべての面で自分と他人とはどう違うのかを、自覚するのが「成人の日」なのです。日本の風習では、生まれたときから、他人と違うことをするな、と教えられます。家庭、学校、地域、会社・・・❣ と取り巻く社会は変わっても、その”教え”変わりません。ディファレントを消す躾けや教育は社会が広がるにつれて、ますますきつくなってゆくのです。しかし、個性とはディファレントから生まれてくるものだと思います。人間は、規格品の、ロボットであってはいけないのです。個性に徹底的こだわって欲しく望みます。「成人の日」は自らのディファレントを発見する日であって欲しいのです。
洞察力を養う 独創性をもった人材が少ないのは、協調性ばかりが重視される日本の教育システムがそうなっているので、競争的なものも加えていくべきだと感じます。テクノロジ-の発達は、遺伝子操作、環境問題、臓器移植などの問題を現代社会に提議しましたが、こうした問題に対処するのに必要なのは文明や人間についての深い洞察力です。この洞察力を養うのに何よりも必要なのが、思想、歴史、文学などの 人文的教養 だと思います。人文的教養の
裏打ちなしにテクノロジ-のみが発達することは危険に感じます。21世紀は
共生の時代であるべきなのに最近の政権、宗教団体・・・❓を巡る事件が多いことか見てもらも明らかなのです。【 人道的 < 産業的(能率至上) 】
”産業型人間の養成より人文的教養をつけ洞察力に富んだ人間の養成❣"