過剰な安全❓【危機管理】日本社会は、法治国家で過剰なまでも理論上では「安全」をうたわれています。しかし、一端、何かが起こると、被災地で延焼していく街をテレビで放映され、24時間なすすべもなく放置されています。ときに息苦しく思えるほどの過剰な安全管理が日常生活の隅々に行き渡っています。それは優秀だといわれてきた工業技術や建築技術、公安機関そして、犯罪率の低さ、あるいは憲法にうたわれる戦争の放棄、などとも合い間って【安全】とは日本の【絶対神話】の趣さえありました。
緊急事態 もっとも「安全管理」の進んだ、という風に誰の目にも映る日本を襲う緊急事態にこの国はまるで赤ちゃんのようにまったく対処できないでいます。新年早々この日常と非日常の間の劇的ともいえる『落差』の不可思議を燃え盛る炎の中に見入ってしまいました。火災、土石流、原発危機・・・❓ それ以外にも、日中街中での強盗略奪、議員の悪徳商法(裏金)、詐欺集団・・・❓ 国会、企業での隠蔽工作、改ざん‥・❓ いまや日本は誇れるものは少なくなり、法治国家ではなく放置国家になり下がりました。この現象を生んだものの主因が長期政権の驕りで政府の立ち遅れにあることは歴然としています。さらにいえばそれは、緊急事態に対応するシステムを完備せずにその場凌ぎ歴代政権の責任だと思います。それを支持してきたのも「国民」なので、改めて政治を注視して選挙に臨むときです。
危機管理 安全管理と危機管理とは言葉の上においてはなにか異句同義語のように感じられますが、これとそれとはあまりにかけ離れ隔たるので、似て非なるものであるように感じます。日本においてその様相が最も鮮明に現れるのが、安全管理が集中していく子どもの育成や教育課程にあります。要約すれば、過剰な安全管理が必然的に派生させるところの仮想現実によって育てられた子どもは、むき出しの現実の危機に直面したときに対処できません。その子どもたちを育てた親御さんも対処できない教育課程を受けてきた「平和ボケ」「なんでも平等」「自子中心」世代の人種です。【 P・T・A 】の < 三竦み >
”子ども世界は一国の社会を表す人に優しい政治危機に対応できる子・・・❣"