こんにちは!『地域で生きるアスペっ子』の津谷てる子です。


 今日は「どん底から立ち上がる」というタイトルで、長い自己紹介をします。ここでひとつお願いがあります。私が一体誰なのか、わかってしまったとしても、決して言わないでくださいね。約束してください。


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 みなさんに質問です。あなたが、誰かに電話をかける時、その相手の顔を思い浮かべることができますか? こんな当たり前のことを聞くなんて、不思議だと思うかもしれませんね。


 しかし、私にはどんなに頑張ってもできないことです。友人や家族ですら、実際に顔を見てもその人だとわかりません。鏡を見ても、それが私だという認識はありません。こんなふうに、私は、視覚イメージのない世界で生きています。


でも、私にはそんなことより、もっと大きな苦しみが過去にはありました。


●私の背景


私は機能不全家庭で育ちました。外から見たら立派な家族でしたが、その中身は正反対でした。私にとって、家は安心できる場所ではなく恐怖そのものでした。それなのに愛されたい気持ちがあり、勉強や学校での活動を頑張ってきました。だから、私に発達障害や学習障害があるなど、誰も気づきませんでした。


初めて精神障害の診断をされたのは高校2年生の時でした。診断されてからは私が何か挑戦しようとするたびに親から「あなたは障害者だからできない」と繰り返し言われ、自信を失い続けました。そんなふうにすごした私の10代後半から30代前半の約20年は、夢ややりたいことを一生懸命諦めるために費やした時間でした。


 転機は33歳、心療内科医の指示のもとに行った減薬でした。予想以上に離脱症状が激しく、入院をしました。入院中に今までの親とのトラブルを担当医に相談したところ、「あなたのお母さんがしてきたことは虐待です」と告げられました。


私の頭の中が真っ白になりました。

本当の絶望は黒ではなく白だと知りました。


その後退院してから、市民サポートセンターで相談していました。けれども、家庭での状況は日に日にひどくなっていました。覚悟を決めたある朝、私は最低限の荷物をまとめて黙って実家を出ました。秋の終わりの早朝は吐く息が凍り、空にはまだいくつもの星が残っていたのを覚えています。どんなに辛いことがあっても、実家に戻らずひとりで生きていこうと決めました。親との距離をとって人間らしい生活をしたかったし、『私は、私であっていい』と信じたかったからです。


そうは決めたものの、現実は厳しいものでした。住居がなく転々としていたので、「今夜、寝る場所はどうしよう?」と考えながら生活していました。そんな時、知人の紹介で精神科訪問看護があると知り、そこで住居を紹介されました。しかしそのアパートはとても住みにくく、生活がしづらかったです。


また、私は健康福祉センターを自分で探し、担当の保健師がいることを知りました。その保健師と障害者のための施設を探し、通所すると決めました。


 しかし、一人暮らしで迎えた初めての冬、住んでいたアパートでキッチンの水道が壊れて使えなくなりました。管理会社に連絡しても、修理してもらえないという事態に陥りました。「ユニットバスの水を飲む生活をしている」と友人に相談したら、友人の知り合いが区の福祉に詳しい人でした。友人の知り合いが当時の施設長に電話をし、急遽ケア会議を開いてくれました。通所先のスタッフ、訪問看護師、保健師、ケースワーカーなど、私を日々支える豪華メンバーたちが一堂に会しました。


その後、幸運にも通過型のグループホームに空室が出て、すぐに入居を決めました。後から聞いた話ですが、ケア会議に来てくれた保健師が毎日グループホームに電話をし、空室が出たかを確認してくれていたそうです。


●もう一度、一人暮らしの練習をすることになった


 グループホームに入居し、スタッフは「まずあなたの話を聞くことから始めた」と振り返りました。私は警戒心が高いのにみんなと接したい気持ちはありました。そんな私を入居者であるメンバーたちも優しく見守ってくれました。

ある日スタッフにこう言われました。

「てる子さんは色の表現が豊かだね」

その言葉をきっかけに、顔を思い浮かべられない私が、人物と『色』と関連付けていることに気づき始めました。たとえばさっきのスタッフのことを「メインカラーがひまわりみたいな黄色で、サブカラーが濃いオレンジ。声は、深緑から黄緑まで幅広い」と認識していました。

そうやって、真っ白だった私の世界に色が戻り始めました。


  グループホームの仲間たちもそれぞれカラフルで、私はみんなが大好きでした。たくさんの楽しい思い出をもらいました。「家って楽しい」と初めて感じました。

 グループホームを退所してからは、毎日のように会っていたみんなの顔もわからなくなってしまいました。道行く人に声をかけては間違えてしまうことばかりですが「見つけたら、私に声をかけてね」とお願いしたことを思い出して気持ちを切り替えます。



〇グループホームから、再び地域へ


 私は再び地域で暮らすことができました。二度目のひとり暮らしを始めて3か月ほどたった頃、自分の時間と空間を自由に使うことをやっと楽しめるようになりました。


 けれども、実家を出て7年経ち、普通の日常を取り戻したが故の悩みがありました。それは私には夢がないことでした。そもそも自分は何かをやりたいと思って良い存在ではないと刷り込まれていました。


でもその考えは少しずつ変化しました。なぜなら、周囲の人たちが、私の書く役割と才能を見つけてくれたからでした。メンバーたちの「てる子さんのことはユニットニュースで知っています」という言葉は、何よりも自信につながりました。


そして今の夢は、私のことを助けてくれた人たちとのエピソードを一冊の本としてまとめることです。私の受賞作を高く評価してくださった芥川賞作家の先生から「書くことをあなたの『人生の杖』のようなものにするといい」とアドバイスを受けました。これも自信につながりました。


●「どん底から立ち上がる」


過去の私は「絶望が真っ白ならば、希望は黒い色だ」と思っていました。色をすべて混ぜると黒になるので、自分らしい黒を創るのが人生なのかもしれない……そう考えていた時期もありました。でも今の私は、それぞれの色がありのままで存在するカラフルな状態が希望の色だと感じます。


顔で人を認識できない私にとって、色は周囲の人を表す大事なアイコンです。今の私はカラフルな仲間たちにささえられていきています。彼らの力で「私は、私であっていい」と思えるようになりつつあります。人見知りの私ですが、これからも沢山の人に出会いたいです。


 私の世界に、これからも『色』が増えていくと信じながら、この自己紹介の結びとします。


今日はここまで。津谷てる子でした。