家庭の中の異常さに気づくのは難しい。そのひとつが、母の承認欲求の強さと、その根深さだった。「親に感謝しなさい」と言われても、全然できなかった。こんなにも良い子として従順に育ち、母の夢を叶えてあげているのだから、感謝されても、する必要はないと考えていた。
私は『母を甘やかす母親役』であり、『母の代わりに夢を叶える優等生』だった。アダルトチルドレン像の『イネブラー』と『ヒーロー』として振る舞うことで、家庭の不和を解決できると思っていた。
そんなわけで、私にも根深い問題が継承されてしまった。
母の幼少期は、寂しいものだったと聞いている。いつも出来の良い姉と比べられ、私を生む前から、劣等感とコンプレックスの塊だった。「なぜそんなに?」と思うほど、祖母や伯母(姉)叔父(弟)の悪口ばかり言っていた。
私は、母の味方でいたかったので、全部聞いてあげた。うんうんとうなずき、辛くても最後まで聞いた。しかし、母の話を裏付ける根拠のないまま、30年以上すぎた。
私が家を出た時、母とのトラブルは単なる喧嘩だと思われていた。「母の虐待から、娘が避難した」などとは、親戚中の誰もが信じなかった。だから、祖母は私と母を仲直りさせたかったようで、こんな話をした。
「あなたのママのBちゃんもいいところあるのよ。Bちゃんはね、幼稚園の連絡帳を一度も忘れなかったのよ。周りのお母さんたちにも『Bちゃん、明日は何を持ってくの?』って頼りにされてたの」
聞きながら、私はあることを思い出していた。
祖母が伯母のAさんの話をするその内容だった。祖母は伯母について、こう話す。
「姉のAちゃんは音大を出て、ピアノの先生なのよ。私たち夫婦は、揃って娘の教室のピアノ発表会を、会館に聞きに行くのよ。Aちゃんは、派手なドレスを着てね。どんな生徒でも、ピアノの椅子に座らせるところから始めて、ショパンを弾けるようにさせるんだから」
心に嫌なものがざらりとふれた気がした。
幼稚園の連絡帳を忘れないことを、母の長所ところとしてあげるのは、どうなのか? 他のことだってあったはずだ。あまりにも落差が大きい。
私は、母の闇をやっと知った。
母自身が愛情不足で育ったのだから、彼女に愛情をもって育ててほしいというのは、無理な話だった。その事実は、娘として、とても悲しい現実だ。ますます、親に感謝なんてできない気持ちになった。それなのに、憎みきれない。純度100%で憎めたら、楽なのに。
ある診察日に、精神科の主治医から、こんな言葉をかけられた。
「たまたま運悪く、感謝できるような親のもとに生まれてこられなかったのは残念ですが、そのことでご自身を責めないでください」
きっと、運悪く親に恵まれなかった人は、私以外にもたくさんいる。声をあげられないだけで、苦しんでいる人は、想像以上の数にのぼるだろう。
そのひとりは、紛れもなく私の母なのだ。
母であってほしい。ずっと、ずっと、そう祈り、願い続けてきた。けれども、そろそろ諦めなければ。母に対して、親であることを求めるのをやめたい。
母は60半ばになったいまもなお、祖母の愛情がほしくて七転八倒しながら、苦しんでいる。私のように、母も、自分の母親(祖母)のことを諦められたら、人生楽しくなるにちがいない。
私たちに、幸あれ。