ウクライナ市内をあれほど破壊されても | 呑気じじいのひとり言

呑気じじいのひとり言

不思議な時代になっちゃった!

街中のビルや建物が、
ロシアからの攻撃で破壊されているニュース映像を見て、
”犠牲者が16人内子供6人" などと聞くと、
「…へえ⁉️」と思う。


あれだけの被害、破壊状況下で、
よくぞその程度の犠牲者で済んだものだと。


と言うのは、
 

 

昔、アメリカとの戦時中に、
夜迷い込んだのか、1機のB29(大型爆撃機)が、
1発の1トン爆弾を投下。
(あれは、目標もなく機体を軽くするために落としたものかも)。
警戒警報は寝る2時間前くらいに出ていたが。


そしてそれは、
ボクの家からそう離れていない地点に落下。


今でもその時の様子はハッキリと覚えている。

 

 

普通、音より光の方が速いから、

雷でも、ピカッ!と光ってから、ゴロゴロ音までの間が長い程、

落雷地点までの距離は遠いと思えば良い。

 

 

それが、あの時は光と音が同時だった。

 

  
一瞬で窓ガラスはすべて粉々に吹き飛び、
その時ボクは、腰壁のある方に頭を付ける形で横になっていたのだが、
(そのおかげで、割れた窓ガラスの破片から頭を守ることが出来た)
ボクの頭上をものすごい爆風が通り抜けていったのです。

 

 

その激しさたるや、

次の間も、その次の間のガラスもすべて、その衝撃風が破壊していき、

道路に面するガラス戸まで全てあっという間に粉々に。


爆風の通り抜けた布団の上はガラスの破片だらけ。


二階にいるボクに、
「テルジー!テルジー!、大丈夫かぁー!!!」の声。
階下で父はガラスの破片が腹部にささり負傷していたのに。

 

 

ボクも慌てて素足のままガラスの破片を踏みながら階下へ。


さて何故この様な話をしたかというと、
その翌日、あの爆撃で町内の40数人が亡くなったのが分かった。 
 

 

小学校の同級生だった女の子も。
今でも彼女の名前を覚えてる。みち子ちゃん。
遺体は見つからず、彼女の着ていた衣服だけが電線にぶら下がっているのが確認された。


たった1発の爆弾でさえこの始末。
当時の日本は木造家屋だったからなのか。
 

 

ウクライナのあの破壊された街並みの惨状を見て、
犠牲者が意外と少ないのが不思議で。


ほとんどの住人が避難して、
残っていた人が少なかったからなのか。

 

 

またはシェルターのような場所や地下に身を寄せ、

隠れていたからなのかは分からないが。



昔と違い現在の戦争では、
ミサイル、ドローンなど、いつ何処から攻撃されるか分からないから
逃げようがない。
 

 

ボクらの頃は、アメリカ機の爆音が聞こえない限りは安全だった。

 

 

もう戦争を体験した日本人は少なくなっていき、

語り部の翁にすぎない私。

 

 

 

戦後、
アメリカの骨抜き政策で、完全に平和ボケに洗脳されてしまった現代の日本人。


いざ有事の時に備え、
基地や弾薬庫を作ろうと動けば、すぐに反対する地元の人達。

  
”話し合いで平和を” 
なんていまだに言い続けるおめでたい人達、
 

 

戦争の悲惨さ。綺麗ごとだけでは決して解決できない。
原爆や空襲で多くの民間人が犠牲になったことを忘れてはならない。


ある日突然攻撃される。


ウクライナみたいに。


その時どうする?

   
 

 


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