光あれ | TERUのブログ

TERUのブログ

つれづれに

初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の表にあり、神の霊は水の面を動いていた。
神は言われた。

「光あれ」

こうして、光があった……

旧約聖書 創世記。新共同訳より――

いきなり聖書の引用ではじまりました、今回のブログ。この創世記の冒頭部分が、宇宙論の歴史の中で、もっとも醜い論争を引き起こすことになるのです。

きのうまでの話をまとめておくと、宇宙論にとって、とても重要なのは「距離」でした。星はどれだけ離れたところにあるのか。これがわからなければ、宇宙の大きさを推定できません。

実際、ハッブルがアンドロメダ星雲の距離を観測するまで、宇宙は、たったひとつの天の川銀河でできていると思われていた時期がありました。

しかし、アンドロメダは「星雲」ではなく、「銀河」だとわかり、わが天の川銀河は、宇宙で唯一の銀河ではないことが判明しました。

それでも、天文学者には、ひとつ確固たる信念がありました。

宇宙は「永遠不変」であり、永遠の過去から、永遠の未来に渡って、「いまのまま」存在するという宇宙観です。

ところが、それすらハッブルの観測によって、宇宙は「動的」なのだということがわかりました。そう。宇宙は不変どころか、つねに「変化」しているのです。その変化が、あまりにも壮大なスケールのため、人間というちっぽけな存在には、動いていないように思えただけなんです。

この動的な宇宙に、最初に気づいたのは一般相対性理論を作り上げたアインシュタインです。ですが、彼は自分の理論より、永遠の宇宙を信じ……いえ、おそらく「恋していた」という表現が正しいでしょう。シェイクスピアがベニスの商人で使ったセリフそのままですよ。

「恋は盲目。恋する者は、自分の愚かな行為に気づかない」。

アインシュタインだけでなく、当時の天文学者は永遠の宇宙に恋していたため、自分たちの愚かな行為に気づきませんでした。

それは、動的な「膨張宇宙」を提唱した、ロシア(当時はソ連)の、アレクサンドル・フリードマンと、ベルギーのジョルジュ・ルメートルという二人の学者を無視し続けたことです。

しかし、ハッブルの観測によって、ルメートルらの主張が正しいことがわかりました。

ここからが、いよいよ現代物理学の幕開けです。

じつは、ルメートルは、膨張宇宙を作るときに、ひとつの推論をしていました。宇宙が膨張しているなら、時間を巻き戻せば、宇宙はいまより「小さかった」はずだと考えたんです。

風船を膨らませている動画を想像してください。その動画を巻き戻し再生すれば、風船はどんどん小さくなっていくはずですよね。それと同じで、膨張する宇宙の時間を、どんどん巻き戻していくと、宇宙はやがて、「小さな点」になってしまうんじゃないか。言い換えれば、宇宙は、その「点」からはじまったんじゃないか。

ルメートルは、その「点」を、「原始的原子」と呼びました。その、原始的原子が膨張をはじめて、いまの、様々な原子でできた宇宙が誕生したというのです。

何度も言うように、当時は不変の宇宙が信じられていましたから、ルメートルの主張は無視されたんですけど、この考え方が嫌われた理由のひとつに、神学が関係していたかもしれません。

じつは……ルメートルは、物理学者であると同時に、カトリックの司祭だったんです。

誤解をしてもらいたくないんですが、カトリックの司祭が、趣味で物理をやっていたなんてレベルじゃなくて、彼はケンブリッジ大学で、アーサー・エディントンに恒星物理と数値解析を学び、そのあと、アメリカのハーバード天文台で、ハッブルの宿敵だった、ハーロー・シャプレーと共同研究をしていました。

バリバリの物理学者。それも一流です。カトリックの司祭のほうが、趣味でやっていたと思えるほどです。(すいません。彼がなぜ司祭になったのかは、調べられませんでした)

しかし、世間はやはり、カトリックの司祭がなにを言ってるんだという目で見たんだと思います。とくに「原始的原子」から宇宙がはじまったというくだりがうさんくさい。なぜなら、聖書の創世記を思い出させるからです。

ルメートル自身は、自分の信仰と、科学の研究は、まったく別物だと、ずっと主張し続けました。彼の信仰は「魂」のためのものであって、科学の研究に、なんら影響していないと。

しかし、そうは言っても、彼は聖職者です。非常に悪い例ですが、現行犯で捕まった泥棒が、「オレは無罪だ」と言っても、だれも信じません。

そんな中、ロシアの物理学者、ジョージ・ガモフは、この膨張宇宙の「最初の段階」という考え方を、真剣に検討してみたんです。何しろ彼は、膨張宇宙の、最初の提唱者であった、アレクサンドル。フリードマンの弟子だったんですよ。

ガモフも、ルメートルと同じく、最初の宇宙は、小さな点になると考えましたが、しかし、それを「原始的な原子」とは思いませんでした。当時知られていた、もっとも基本的な素粒子である「陽子」「電子」「中性子」の3つが、スープのように混ざった状態だと考えたのです。

ガモフは、このスープの状態から出発して、宇宙が膨張するにつれて温度が下がると、そのつど、変化が起こって、物質が作られていったのだろうと考えたのです。

ガモフは哲学者でも聖職者でもなく、純粋な科学者ですから、考えたただではなくて、純然たる理論によって、それらを整理し、そして完全な数学で表記しようと思い立ちました。

ところが、当時のロシアは、「ソ連」と呼ばれていたと書けば、彼が研究を自由に行えなかったことを察していただけると思います。ガモフはソ連政府からの迫害を恐れて、やはり物理学者だった妻と、ソ連からの脱出を試みます。最初の脱出は、黒海をカヌーで渡るという無謀なものだったので、それは出発後すぐに断念して岸に戻り、けっきょく、外国で開かれる科学のセミナーに出席するという名目でソ連を出て、アメリカの亡命しました。

亡命後、ジョージ・ワシントン大学の教授に就任すると、ガモフは原始宇宙の研究に戻りました。

とてもエキサイティングな研究ですから、ガモフ以外にも、多くの学者が同じ研究を……

と、言いたいところですが、ガモフはすぐに、この研究をしているのが、自分だけだと言うことに気づくのです。

当時は、第二次世界大戦のまっただ中。優れた物理学者は、ロスアラモス研究所に連れ去られ、マンハッタン計画(原爆の製造)に従事していたんですよ。

ところが、ガモフはソ連からの亡命者です。極秘中の極秘任務である、原爆の製造に従事させるわけにはいかないと、アメリカ政府が考えても不思議はありません。

というわけで、ガモフは、ほかの学者たちより、数年先行して、この研究を進めることができました。

が!

やがて大きな壁にぶち当たったのです。初期の宇宙で、陽子や電子、そして中性子がどのように振る舞ったかを知るには、非常に高度で、かつ膨大な計算を必要としました。当時はまだ、コンピューター(職業ではなく機械のコンピューター)が存在しないに等しかったので(軍は初歩的な計算機を持っていました)、その計算をする才能が、ガモフにはなかったんです。

「ダメだ~、数学に強い助手が欲しい~」

とガモフは思いましたが、そんな優秀な助手が簡単に見つかるはずもありません。けっきょく、研究をはじめて5年後の1945年に、やっと優秀な学生と巡り会います。

彼の名は、ラルフ・アルファー。当時24才だった彼は、ガモフの助手として、後には共同研究者として、宇宙論の発展に貢献したのですが、その仕事が正当に評価されなかった非常に不運な研究者の一人です。

ところで、1945年と言えば、第二次世界大戦が終わった年ですよね。超のつく優秀な物理学者たちが、ロスアラモスから解放されて、自由に研究できる日が戻ってきました。

ガモフも、アルファーという優秀な助手を得て、いよいよ、現代宇宙論も礎となる基礎研究が本格化します。

そのころ英国では……

ちょうど、ほぼ時を同じくする、1945年の9月。ケンブリッジ大学天文学研究所の、フレッド・ホイルという天文学者が、ガモフの理論に真っ向から対立する宇宙論を作るためのインスピレーションを得ていました。

ガモフは、アルファーと共同研究した宇宙論を1948年に発表し、ホイルもその1年後の1949年に、独自の宇宙論を発表しました。

この二人の対決が、もっとも醜い論争の第一幕なのですが……

ああ、ここまで書いたら、力尽きました……今回で終わらせるつもりだったのに、まだ二、三回続いちゃいそうです。

すいません、もう少しお付き合いくださいませ~。

では、また明日。