1919年5月29日の日食 | TERUのブログ

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つれづれに

1912年。

アインシュタインは悩んでいた。

彼はそのとき、後に物理学の概念を変えることになる「一般相対性理論」をほぼ作り上げていた。その理論は、長きにわたって信じられてきた、ニュートンの重力理論を、古くさい過去のモノにする試みだった。ちょうど天動説は誤りで、地球のほうが太陽を回っているのだとわかって、人々の宇宙観が、まるで変わってしまったときのように。

しかし、アインシュタインが自説を証明するためには、理論の予想する結果を、実験や観測によって示さなければならない。

ところが、当時の技術では、一般相対性理論を証明するための実験装置は作れそうになかった。アインシュタインの理論を証明するためには、地球上ではあり得ないほど強い重力を必要としたからだ。

だが、地球上である必要があるのか? 天を見上げれば、巨大な重力を持った天体が輝いているではないか!

そう。アインシュタインは太陽に注目した。

光は重力によって曲げられる。太陽ほどの強い重力なら、当時の技術でもギリギリ観測できるだけの「光の曲がり」を、アインシュタインの理論は予想していた。ニュートンの理論では、その曲がりはごくわずかなので、厳密に観測さえすれば、ニュートンの理論の誤りが露見し、アインシュタインの正しさが証明される。

そこでアインシュタインは、天文学者のエルヴィン・フロイントリヒに相談した。昼間の太陽は明るくて夜空の星を隠してしまうが、日食のときなら、空は十分に暗くなり、太陽のそばにある「星」を観測できるはずだ。その星の位置を調べれば、光が曲がっている様子がわかるだろう。

つぎの日食は、1914年の8月21日に、クリミア半島で見られるはずだ。アインシュタインは、フロイントリヒが観測隊を組織するために必要な資金を負担する覚悟までしていた。

そして1914年の7月19日。フロイントリヒは、観測隊を引き連れて、クリミア半島へ向かった。

だが……

その前月。オーストリアの皇太子がサラエボで暗殺されるという事件が起きていた。世界はすでに、第一次世界大戦に向けて止まらない坂を転げ落ちていたのだ。

フロイントリヒの無謀な旅は、戦争という壁に阻まれて失敗した。観測隊はスパイ容疑で逮捕されてしまったのだ。幸いだったのは、ドイツでロシア将校の一団が拘束され、捕虜交換の協定が結ばれて、フロイントリヒたちは、無事ベルリンに戻ることができた。

この出来事は、アインシュタインが落胆したというだけでなく、科学にとって、戦争による暗い4年間の幕開けでもあった。優秀な科学者が何人も、戦争によって命を落としたのだ。

たとえば、イギリスの原子物理学者、ハリー・モーズリーは、従軍した先の、トルコのガリボリで、第一次大戦の中で、もっとも熾烈な白兵戦で命を失った。敵国ドイツの新聞でさえ、彼の死は科学にとって「重大な損失である」と述べたそうだ。

あるいは、ドイツの天文台長だったカール・シュヴァッルツシルト。彼も国のために戦うことを志願した。彼は塹壕戦の膠着状態の中でも論文を書き、そのうちの一遍はアインシュタインの一般相対性理論に関するモノだった。論文を受け取ったアインシュタインは、シュヴァッルツシルトの代理として、プロイセンのアカデミーに論文を送ったが、その4ヶ月後に、シュヴァッルツシルトは東部戦線で不治の病にかかり帰らぬ人となった。

そのころイギリスでは……

ケンブリッジの天文台にいたアーサー・エディントンは、アインシュタインの一般相対性理論に関して、深い考察を行っていた。

彼はイギリスの誇るニュートンは間違っていて、ドイツのアインシュタインの理論こそが正しいと確信していた。

そして、ここが重要なのだが、エディントンは良心的兵役拒否者だったから、戦争へ行くことを拒否した。それによって、留置場送りになろうとも、絶対に戦争へは行かないと決めていた。

そんなエディントンを助けたのは、王室天文学者のフランク・ダイソンだった。

ダイソンは、1919年の5月29日に、皆既日食が起こることを知っていた。しかもその日食は、ヒアデス星団と呼ばれる、たくさんの星の集まりを背景にして起こるはずだったから、アインシュタインの理論を観測するにはうってつけだった。

だからダイソンは、エディントンは、戦争へ行くよりも、その観測をしたほうが国家に尽くすことができると政府を説得したのだ。

そのときダイソンは、日食の観測によって、敵国ドイツのアインシュタインが間違っており、偉大なるニュートンの理論こそが正しいと証明されるとほのめかして、政府の要人を説得した。ニュートンの名声を守るのがイギリス人たる務めだと。

本当はダイソンも、アインシュタインの正しさが証明されると信じていたが、戦争中の政治家を納得させるには、そんな愛国主義的な方便も必要だったのだ。

ダイソンのロビー活動により、エディントンは留置場送りを免れ、日食観測の責任者という仕事を得た。

当時は、エディントンほど相対性理論について熟知していた天文学者はいなかった。なにしろ、エディントンが書いた『相対性の数学理論』という本を読んだアインシュタイン自身が、「あらゆる言語で書かれた書物の中で、このテーマに関する最良の一冊」と絶賛したほどなのだ。

幸いなことに、第一次世界大戦は収束へ向かいつつあった。それもイギリスの属する連合国側の勝利で終わることが色濃くなっていたから、観測隊の準備は比較的容易だった。

そして、1919年の3月8日。エディントンは、観測チームを従えてリバプールを出航し、大西洋のマディラ島に向かった。この島で科学者たちは、2つのチームに分かれた。エディントンは船を乗り換えて、西アフリカの赤道ギニア沿岸にあるプリンシベ島に向かい、もう一方は、ブラジルに向かって、ジャングルの町ソブラルで観測することにした。

二手に分かれたのは、天候の心配を減らすためだ。どちらかが曇りで観測できなくても、もう一方は幸運に恵まれて、日食を観測できるかもしれない。

プリンシベ島に着いたエディントンは、島をくまなく調べ回って、もっとも天候に恵まれそうな高台に観測装置を組み立てることにした。彼のチームは装置のテストと練習を重ね、本番の日には、なにもかもが完ぺきであるように慎重に準備をしていった。

だが……

日食が近づくにつれ、プリンシベ島にも、ジャングルのソブラルでも、怪しい雲が立ちこめはじめた。その雲はとうとう、雷を伴う嵐に変わった。

エディントンの観測地では、月が太陽を隠そうとする一時間前に嵐が収まった。しかし、雲は晴れなかった。理想的な条件にはほど遠く、観測の成功は絶望的だった。

しかし月と太陽は容赦なく進み、ついに日食がはじまった。このときの様子を、エディントンはこう綴っている。

「雨は正午ごろと、午後一時半ごろに止んだ。後者のときには部分食がだいぶ進んでおり、われわれはほんの一瞬であれば、太陽を直接見ることができた。あとは写真撮影のプログラムを信じて、計画を遂行するだけだった」

月は太陽をどんどん食い進み、食がいよいよ最大の皆既日食になったとき。

「この世のものと思えない薄暗がりの光景と、観測者たちの声によって中断される自然界の静けさ。その中で意識に登るのは、皆既日食の持続時間である302秒を刻むメトロノームの音だけだった」

エディントンは、日食がはじまったときと、途中で雲がどれくらいあるかを見るために空を見上げただけで、あとは写真乾板の交換に追われた。彼のチームは、302秒の間に、16枚もの写真を撮影したが……そのほとんどは雲の切れ端がかかっていて、観測には使えなかった。

たった、1枚をのぞいては……

そう。16枚のうち、たった1枚、雲がかかっていない写真が撮れたのだ。それは過去にも何度か撮影されてきた日食の写真ではなかった。科学上、この上もなく意味のある目的のために撮影された写真だ。

エディントンは、その写真に写る星の位置を正確に計算し、観測装置の誤差も考慮に入れた上で、1・61±0・3秒という結果を得た。(ここで言う「秒」とは時間ではなく角度の単位です。1秒角は1度の3600分の1です)

アインシュタインの理論では、1・78秒になるはずだった。しかしニュートンの理論では、それは、たった0・87秒に過ぎない。

幸運にも、ブラジルで観測したチームのほうは、もう少し使える写真が撮れていて、そちらの解析結果も、アインシュタインの予想とよく合っていた。

じつのところ、エディントンたちの観測精度はいささか低く、疑いの余地なくアインシュタインの正しさを証明するものではなかったが(当時は十分な精度があると判断された)、ニュートンの理論が間違っていることを認めるには十分だった。

王立天文学協会と王立協会は合同会議を開き、エディントンの観測結果を認めた。

そして、その年の11月6日。両協会は、この重大な結果を公式に発表することにした。

その出来事に立ち会った一人、数学者であり哲学者でもあったアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、そのときの様子を、つぎのように書き綴った。

「関心の張り詰めた空気は、まさしくギリシア演劇のそれだった。至高なる出来事のうちに神意があらわになり、われわれ合唱隊がそれに説明を加える。演出それ自体も劇的だった。伝統的かつ儀式的で、舞台背景にはニュートンの肖像画か掛けられ、科学におけるもっとも偉大な一般化が、いまこのとき、二世紀以上の時を経てはじめて修正を受けるのだと言うことをわたしたちに告げていた」

さあ舞台は整った。

いよいよエディントンが演台に上がり、自らの観測を情熱的に語った。そして最後に、観測の結果が持つ重大な意味――宇宙はニュートンではなく、アインシュタインの理論に従う――を説明して、講演を締めくくった。

こうして、科学史上もっとも重要な日食観測は、成功のうちに幕を閉じたのだった。






いかがでしたでしょうか。なんの前ふりもなく、科学史上、大きな意味を持つ1919年の日食観測についてエッセイ風に書いてみました。

このブログを書いている現時点で、関東地方の、明日の朝の天気は思わしくないようです。エディントンが、たった一枚の幸運に恵まれたように、ぼくらも、ほんの一瞬でも金環日食を目にすることができることを期待しましょう。

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ふーん……

興味ないですよね、ノンさんは。(^_^;)