いろいろな方のお話をうかがって、勉強させていただいています。
ニュースサイトからの転載です。
***********************************
「幸恵ちゃん会いたい」 58年前、生後2カ月で預かり、1年間育てた「名付けの母」
2019年9月13日 14:48
幸恵(ゆきえ)ちゃん、お元気ですか―。沖縄県豊見城市で保育園を経営する玉城文子さん(82)は、58年前に一時預かっていた幸恵さんに会いたいと願っている。幸恵さんの両親が病気を患い、生後2カ月で玉城さんの保育園に預けられ、1歳2カ月で祖父母に引き取られるまで育てた。玉城さんは「元気でいたら今頃、60歳近く。ずっと気掛かりで、一目でも会いたい」と語り、連絡を待っている。
幸恵さんは両親ともに結核を患い、1961年に玉城さんが開設した「こひつじ保育所」(糸満市糸満)に県の福祉事務所を通じて預けられた。名前は付けられておらず、玉城さんが「幸せに恵まれてほしい」との願いを込めて「幸恵」と名付けたという。
当時、保育所を開いて約2年目だったという玉城さん。幸恵さんは未熟児で生まれ、生後2カ月は保育器の中で育った後に玉城さんの保育所に預けられたが、よく風邪をひいた。1回に飲むミルクの量も少なかったため、約20分ごとにミルクを与えていたという。復帰前で物資も乏しい中、幸恵さんのおむつや着替えは近くに住む宣教師にお願いして工面していた。
預かって約1年後、よちよち歩きをし始めた頃、母親の退院を機に祖父母が引き取りに来たという。玉城さんは「身が引き裂かれる思いがしたが、母親に勝るものはないと笑顔で見送った」と振り返る。その後、2~3回、祖父母と保育所を訪ねてきたが、それ以降は会えていない。
玉城さんによると、幸恵さんの両親は那覇市与儀に住んでいたとの情報がある。名字は「比嘉」と記憶しているが、定かではないという。現在も保育園を運営する玉城さんは「幸恵ちゃんとの出会いが私の保育の始まりだった。元気でいてほしい」と再会を希望している。玉城さんの連絡先は豊見城市のゆたか認定こども園(電話)098(850)5992。(池田哲平)
**************************************
↓そして後日。
**************************************
「幸恵ちゃん」に会えた 砂川さん「感謝しかない」 玉城文子さん、50年ぶり
2019年9月17日 05:00
50年以上前に約1年間預かった女児「幸恵(ゆきえ)ちゃん」を探していた沖縄県豊見城市の保育園経営玉城文子さん(82)が16日、本人と再会を果たした。13日付本紙記事「幸恵ちゃん 会いたい」を読んだ関係者から連絡を受け、実現した。玉城さんは「ずっと心残りで、このまま死にたくないと思っていた。この縁を大切にし、これからも“親子”として心を通わせていきたい」と感激していた。
女性は那覇市に住む砂川幸江さん(54)。13日の報道を見た親戚から「あなたのことじゃないのか」と指摘された。名前の漢字は違ったが、母に確認したところ間違いないことが分かり、玉城さんに連絡した。
幸江さんは幼い頃、一時的に知人に預けられていたとは聞いていたが、詳しくは聞かされていなかった。未熟児でよく風邪をひいたこと、息子2人を抱えながらわが子同然に育てたという玉城さんの話を聞き「親以上の愛情をもらっていたことを知り、感謝しかない」と目頭を押さえた。
保育園を出た後は父を亡くし、母が家を出て行かざるを得なくなるなど波瀾万丈(はらんばんじょう)の人生を送った。それでも今は息子や2人の孫と一緒に暮らし、幸せだという。
玉城さんは「幸せに恵まれてほしい、と確かに『幸恵』と名付けた」と言うが実際は「幸江」さんだった。それでも「幸せな子であることは間違いない。私も“娘”と会えて幸せいっぱい」と感慨深げだった。
*************************************
この方々の再会には、
- 玉城さんが会いたいと強く願ったこと
- 新聞社の協力が得られたこと
- 親戚の方が報道を目にしたこと
- 「あなたのことじゃないのか」と本人に伝えてくれたこと
- 実母さんに確認が取れたこと
- 幸江さんが、玉城さんに会いたいという意思があったこと
- そして、お互いが「存命」だったこと
いろいろな幸運が積み重なって、再会が果たされました。
今回の事例は、社会的擁護の仕組みに則ったものなのか、わかりません。
しかし、生後2ヶ月~1歳2ヶ月を一緒に過ごしたお子さんを、
50年以上経っても「娘」と想っている。
ごくごく自然な感情です。
この記事に対しての、ヤフーニュースのコメント欄はこちら。
多くの方が、再会を喜んでくれています。
里親制度の中には、このような思いをしている方が、大勢いらっしゃるのだと思います。
もちろん、当時の記憶がない「こども」に「私が親だ」と強制する方はいないでしょう。
里親制度では、あえて分断する仕組みになっています。
- どこの施設にいるのか所在はわかっていても、「会いに行ってはならない」
- 関係先の周囲の人間には「会わせるな」と釘をさす。
- 里親はあくまでも、一時的なもの
こどもの愛着対象がぶれて混乱するという指摘もあります。
たぶん、そうなのだと思います。
それについては理解しています。
実親さんの下で、幸せに暮らしているのなら良いのです。
実際には、施設におかれて面会も1回/月に満たない。そんなケースもあるのです。
そういう中で、こども達に接している職員さんたちの心労はいかばかりか。
(児相の誤解で保護されてしまい、会えない実親さんもいらっしゃるようですが、その話は別の機会に。)
社会的擁護の子どもにとっての「ライフストーリーワーク」。
里親家庭→施設へと措置変更されたこどもの場合、
どのように伝えられるのでしょうか?
「いろいろな事情があって、ここに来たんだよ」とふんわりと伝えるのでしょうけれど。
どんな思いで里親さんが送り出したのか、伝えられないのでしょうね。
そう、「社会的擁護=こどものための仕組み」の前には、
里親の感情は目の上のたんこぶあってはならないもののようです。
さて、10月は里親月間。
里親体験発表会では、基本的にホンワカとした温かいお話しかありません。
でも、実際には里親をしたことで病んでしまった方、傷ついた方もおられます。
そして、そうした体験から「解脱」するには、自己回復力に任されているのが現状です。
ネガティブキャンペーンのつもりはありませんが、
「里親にはそういうこともあるんだよ。」と
正直にバランスよく、伝えて欲しいものです。
虐待などで親と暮らせない子どもたちを、長期的に支援できる里親制度に改革してください。
お読みいただき、ありがとうございました。