自意識とPA

NYから帰ってから特に気づいたことは、日本人の複雑さ。
中でもこの自意識の高さはすごいです。
これもまた帰ってからなんですが、よく耳にしたり目にしたりするのが『意識』という熟語。
美意識が高い、目的意識を持って、なんか意識しちゃう、意識革命…
使われ方で「感性=Sensibility」だったり、
「認識=Awareness」だったりあいまいな気もしますが、
多くの日本語が、ひと文字ずつ意味を持つ漢字の組み合わせですから、
多義多様、人によって習得も使い方もあいまいになりがち。
ここで言いたいのは「自己を中心にした思い」とでもいいましょうか。
他人の中でキツキツに暮らす狭さのせいか、
どうしても「他人を勘定に」入れざるを得ない国ですが、
だからこそ、自分を失う怖れもいだいてるようで、
いつも人が自分をどう見ているかが気になります。
なるべく「ないがしろ」にされないように気をつけたり、
自分も特別なんだと思う心の表れかと?
この意識は子どもの頃から個人差が顕著です。
いわゆる「シャイ」という人も、ふた通りで
ほんとに何を言ったらいいか、したらいいかがわからなくてシャイになる人と、
十把一絡げ(ジッパヒトカラゲ)が気に食わなくて参加しない人といます。
この両方を持つ子どもも最近多いようです。
初めて会う人に挨拶されても後ずさって、黙る、もしくは遠巻きに見る。
または、すでに輪が出来てるところに仲間入りできない。
この気持ちを克服できずに行くと「引きこもり」や「不登校」もありえます。
どうすべきかわからず1歩引く、というのは経験値が増えれば収まる普通のこと。
それなりにうまく他の子と付き合っていく方法を見つけるものです。
しかし、他の人がやってるから、同じはイヤだというのはもう、
生まれつきの性格かもしれません。いわゆる「天邪鬼」がこれでしょう。
友達の誕生会でも自分が主役級でないなら行かないと、無意識に決めそうです。
一見個性が強い、自己主張が強い、と思われがちですがそうでもありません。
本人はいたって平凡な子。
何か他の子とは違うことを考えたり、望んだりしてるわけではなく、
自分が1番大事にされたい、特別に扱ってもらいたいという、誰もが持つよなわがままです。
昔は兄弟姉妹が多くて、主張できる時とそうでない時の分別を
それなりにつけられることも多かったと思います。
今は少子化で、家庭内ではいつも主役。
「ほめて伸ばす」教育の効果がうたわれてからは、
図に乗ってるとしか思えない親子も多い気がします。
幼稚園や学校などの公的な機関から受けられる最大の恩恵は、
今では知識の伝達よりも実はこの集団の中での適応力かもしれません。
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主題は大人に戻って、
そう、この自意識の高さが、とてもやりにくいと感じることが多いです。
これを書いてる本人も含めて、と前置きしておきましょう:p
ちょっとしたことでヘソを曲げてしまう自己優先型の人は、
何件か回る予定の中で後回しにされたとか―(うるさそうな人をつい優先しちゃいます)
自分の言ったことが反映されてないとか―(いえ、アナタの意見はAさんと同じでした)
一方、他人を優先しすぎる人は、
いつまでも謝り続ける人とか―(もうそこまでされると、どんだけこちらもしないといけない?)
他の人がどうするかわからないのでパスしますとか(合わせようとしすぎじゃないの?)
すべてがわがままのせいではありませんが、何でも過ぎれば表裏一体。
前に書いた『無知の罪』という記事でもちょっと触れましたが、
自意識過剰は無意識過剰になりかねません。
自分に重きを置きすぎる人にも、他人に置く人にも、
結局自分のペースで事を運ぶのに慣れた手練手管を感じます。
たまには人と同じでもいいじゃん、
たまにははっきり何が好きって言ってもいいじゃん、と思ってしまう。
たまにはみんな揃ってやっていこうよって。

こんな風に困るのは実はアメリカにいた時じゃなかったの?
という疑問を持つ方もいるかもしれません。
世に知れた個人主義。
個性が尊重され、人と違う「ユニーク」でいることが大事な国。
ちなみにこのユニークの語源はユニ= Uni、ラテン語のunus です。
ただひとつの、無双無比という意味。
個性的というのに1番適した言葉だと思います。
アメリカのことですが…、一概にそうでもないんですね。
もちろん、自分を1番だと考え、他を考慮しない、典型的な自意識過剰がたくさんいます。
自信家ともいえるし、オメデタイとも言える。
そういう人は度々、非難やイジメという集中砲火を受けます。
わかりやすいから扱いやすいし、今では貴重な美点として、嫌いになれません。
アメリカもヨーロッパも都会より田舎が圧倒的に多い。
テレビやネットでつながれてはいますが、
国や州の広報威力より、やはり土地柄の影響が大きいようです。
だから彼らが集まった時にはそれぞれの個性を尊重せざるを得ない。
だってほとんどの人が個性的で、違うのが当たり前ですからね:p
でもまとまるとなると、鶴の一声ということも多いです。
誰も自分は主役になれそうもないからという無意識の声に左右されません。
ワイワイ騒ぐのもはじけるのも好き。
興味はあるけどない振りをする、ということを考える人は意外に少ない。
その他大勢という意識が薄いからでしょうか?
集団の中でも、自分もしっかり声を大きくするっていう自信でしょうか?
自分も人に合わせてのインディビデュアルな応対が苦手だから、
人もまさか個人的に阿られる(オモネラレル)とは期待してないからでしょうか?
不思議なもので、つっけんどんには慣れることが出来ます。
別に深い意味はないとわかれば、それまでです。
だけど、遠慮がちに自己主張されると、大変複雑なプロセスを経ないとならない。
海外でよく言われるのが日本人のパッシブアグレッシブ(Passive Agressive)
=寡黙なる押し付けがましさです。
これには当惑したりあきれる人が多いです。
言わなくても分かってくれてると思った、というやつです。
というのは、普通これはデイト中の女性しかやらないからです。
男性にしてみれば、コレがいかに困るかわかってもらえると思います。
男性でなくても、SNSが発達した今、このPAな人々が、
実生活では言えないことをネットで言って、満足を得てる人も多いので、
よくわかるかもしれません。かなりアグレッシブになってます。
「私はそうは思わないけど○○はこう言ってた」とか、
そんなコーティングもせずに「ータヒネ」とか言ってしまう人とかいますよね?
ネットによってこうした卑怯な人が力を持ったことはムカつきます。
グローバル企業ではPAは人格的にも戦略的にもタブーと教育してると思いますが、
フツーの企業ではまだまだこうした態度に出くわすそうです。
自分で企業の利益を考えず、ただ支持を待つ人たち。
ワシの場合は自分で考えすぎて、指示待ちせずに損したような気がしますが:p
はっきりものを言わず、それでもなんとなく我を押し通そうとする人。
子どもの時に、はっきり主張して、手痛く叱られた経験でもあるのかもしれません。
その手法に優美な磨きが掛かってる人もいれば、そのままの人もいます。
政治でもまだまだPAな方が多いですよね?
PAの最大の利点は、人に反論や攻撃する正当性を与えないこと。
はっきり言わなければ言葉尻をとられる心配もありません。
部下なら、表立って上司に叱られないで済む利点があります。
だけどほんとははっきり注意された方が後々有利なんですよね。
突っ込まれやすくする、注意しやすい人になることは、
人のリスポンスをそれだけ多く知ることになります。
つまり人に関して多くを学べる機会が増えるわけです。
一方、人に合わせているように見えて、影口や裏工作があると、
海外での信用はがた落ちです。
アジアや中東では、ビジネスの上でまだまだこの手が多いようです。
これは忌憚なくいえば、文明の成熟度にもあると思われます。
狭い社会でしか通じない手。
今は市場的に大きなアジアは欧米の垂涎の的。
この手法を学んで取り入る欧米企業もあるでしょう。
でも広く世界を見始めると、はっきり正々堂々やったほうがいいとわかるようで、
敵対的M&A =HTO(Hostile Take Over)でさえ、今は堂々となされています。
ただそのはっきり堂々も、気の遠くなるような手続きが必要ですが。
遠慮や寡黙、一歩引いて相手に譲る美徳はとても素晴らしいもの。
しかしこれは何も日本人だけが持つ美点ではありません。
どこの国にもこうした文化が根付き、人々の中に息づいています。
自意識過剰になるほどではないだけです。
反対に、帰国子女だからと言って、何でもズケズケ言っていいわけでもありません。
自己過信を、ハッキリ言う態度、と誤解するのも考え物です。
どちらにしても、自分を気遣うあまりの無意識過剰は、自分では気付けないもの。
今自分が躊躇してることが、果たして誰を慮って(オモンバカッテ)のことなのか、
1度再認識してみると、面白いかもしれません。
先にも言いましたが、これはワシも含めてのことだと承知です。
こんな風に書いて、自分はそんなことないけど、と匂わせるような
PAなやり方はしたくありませんσ(^_^;)
