追悼!村上龍 | Ternod Official blog

Ternod Official blog

哲学思想研究、文人画。 反緊縮行動(Anti-Austerity Action)〔生ー政治(Bio-politique)に抵抗する自律労働者(Autonomia Operaia)〕。 ブラック・ミュージックをこよなく愛す。レコード/CD店、古本屋、美術館などで出没することが多いです。

 

作家の村上龍が亡くなりました。

享年74歳です。

 

 

村上龍の小説はいろいろ読んで、深く影響されました。

中でもとくに衝撃的だったのは『限りなく透明に近いブルー』ですね。

剥き出しの暴力性の下に描写されるセックス&ドラッグのライフスタイルの荒々しい描写のように感じました。

絵画でいえば、タブローでなくデッサンですね。

文芸批評家の江藤淳は「サブカルチャー」と全否定に近い批判をしたそうですが、それに対して蓮實重彦は『表層批評宣言』(ちくま文庫、1985年、p.108~110)の中で、江藤淳や小田切秀雄らによる批判に対して、その背後に江藤は倫理性、小田切は科学性という「規範」が隠れていることを暴き出した上で、江藤や小田切らを批判しています。

その上で、蓮實は『限りなく透明に近いブルー』を指して、「村上龍の作品が描きだす世界は、まるで戦災で焼滅した自分の生家の跡に建っている連れ込み宿のような猥雑で醜悪なる光景を舞台として展開され、その狂った距離感やゆがんで遠近法を修正しようとすらしない」(前掲書、p.110)と述べています。蓮實は、江藤が同作品を否定する根拠はそのようなものだとして述べていますが、この蓮實の見方は一面では的を得ているとは思いますが、むしろ、だからこそ村上龍の小説は魅力的だと思います。

そして蓮實は続いて、こう結論づけています。

「『限りなく透明に近いブルー』は、だから喪失や崩壊という現象を真剣にうけとめようとはしておらず、そんなところに思考の名に値する身振りが演じられるはずがないのだ。江藤淳が村上龍という文学的現象を否定する根拠ははほぼそうしたものである」(前掲書、p.110)。

江藤淳といえば『成熟と喪失』(1967年)という文芸評論書を刊行していますが、同書は全体の底流をなすテーマとして、母子密着の強い日本社会では「母の崩壊」なくして成熟はありえないという考え方が貫かれています。ここでの成熟とは、近代的主体の成立ですが、つまり村上龍はそのような問題意識を引き受けようとしないという意味で、江藤は村上を否定しているということですね。

『限りなく透明に近いブルー』をめぐるセンセーションとそれに対する文芸批評の戸惑いや批判について取り上げましたが、ここでは村上龍についての文芸批評を云々することが目的ではないので、このくらいにします。

 

それ以降、『69 sixty nine』、『愛と幻想のファシズム』、『イビサ』、『ラブ&ポップ』、『希望の国のエクソダス』と読んでいきました。

 

『愛と幻想のファシズム』は、ファシストの政治結社「狩猟社」を立ち上げる人物が鈴原トウジ、相田ケンスケで、『エヴァンゲリオン』での碇シンジたちエヴァの搭乗員のクラスメートの名前にもそのまま使われています。

他にも『エヴァ』の陰謀的な展開などに遠い影響を感じたりもしました。

あと『ラブ&ポップ』は、庵野秀明監督の映画版を先に見ました。

ストーリーは、危険な火遊びはそのうち痛い目を見るというありがちなものですが、庵野秀明初の実写映画で、自主映画のドキュメンタリー・タッチの映像手法を感じました(実は予算制約でこういう手法になったそうですが)。

『希望の国エクソダス』は、それまで1990年代後半あたりまでは、まだカルチャーシーンの中では「バブルの残り香」が感じられたが、その残り香もいよいよ消滅し、デフレ不況の深刻化という現実があらわになりつつあった頃の時代的空気を感じます。独自のネットワークを築き上げた中学生らが、「希望のない国、日本」を見限って、北海道の原野に土地を購入して自分たちの経済圏を建設するという話ですから。

 

また、エッセイ『すべての男は消耗品である』は、衝撃的にして、それまでのダンディな生活をしているであろう村上龍のイメージを一転させるものがありますが、それはそれで重要なことを言ってもいると感じます。

 

ともあれ、村上龍さん、早すぎた死だと思います。