ナンシーは、1940年に生まれ、いわゆるフランス現代思想において果敢な発言を行っている人物のひとりである。
マルティン・ハイデッガーにはじまりモーリス・ブランショに影響を与えた共同性の問題、神学にさかのぼった形而上学の脱構築、そしてテクノロジーや生命技術の問題にまで踏み込んでいる。
そうしたナンシーによる本書は2011年12月、東洋大学で行われたウェブ講演会において発表された講演に、発表済みの論文を加えて刊行されたものである。
そして本書で目についたのは、彼は技術的・社会的・経済的の「破局」に対して、マルクスの等価性になぞらえた上で、ギリシア悲劇におけるカタストロフのような意味を見出したことはないこと、第二に、その「破局」は宗教的な救済にはなんら結びつかないとしている。
具体的には、哲学者の西谷修さんの文章をもとに、「西谷はそこで単に政治的、社会的、経済的な状況分析を展開しているのではなく、「原子力文明」に対する問いかけに着手しているのだ」と述べている。もうひとつはパリ在住の詩人である関口涼子さんが3・11以降につけていた日記から、「地震の四九日後、これは仏教の慣わしでは魂が彼岸へと最終的にたどりつくと言われる日だ」を引用し、「いかなる「彼岸」も慰めになることのないとりかえしのつかないものという響きをきかせている」とする。
また本書に収録された論考「集積について」で私が気になった箇所がある。
それは、人間が制御できないまでに肥大化した技術的・社会的・経済的な相互依存の複雑性に対して、一方ではインテリジェント・デザインのような見方が出てきたと述べていることである。
「だが、世界の配置や生成などがどれも、一見するとかなり問題含みでさらには論争の的となるように見えつつも、その背後でなんらかのインテリジェント・デザインに呼応しているのではないかなどと想定することはできない。このような観念は、技術の思考の不在の典型的な産物である」(本書106ページ)。
インテリジェント・デザインとは、アメリカのキリスト教原理主義者が進化論を否定して「神の創造」を対置する論理に用いられる、世界の生成の背後に知性ある何者かによる計画があるとする見方であるが、ここでナンシーはプラトン以来の造物神(デーミーウルゴス)以来の全能の超越者を指して批判している。
「なんらかの構想者(デザイナー)によって、人間的な知能にいたるような素材ないし生命が構想され構築された(これは同じことだ)とすれば、「目的」とか「第二の自然」とか、はたまた「自然」そのもの、さらには「理性的人間」ないし「全的人間」といったものを投影することを断念しなければならないはずなのに、なぜこの知能は、そこで自分が何をしているのかまったく理解できないのか」(本書108ページ)。
このナンシーの批判から私が思ったことは、20世紀後半以降、科学技術、政治社会、経済などが複雑になり、専門家以外の人々にとっては「不可視」の領域となりつつあることに対して、一方にインテリジェント・デザインや宗教的原理主義に答えを求める人々がおり、他方ではリベラルな人々の間に広がってきたのが、陰謀論ではないかということである。
リベラル派もまた、世界の動向を「闇の支配層」による陰謀で説明しようとし、自然災害を人工兵器と言いだしたり、福島第一原発事故の低線量被爆を過剰に危険だと言い立てて怪しい健康食品やマルチビジネスに人々を引き込んだりしている。
つまり、宗教原理主義に走る右派と、陰謀論を言い立てるリベラル(左派)は、実は同質のパラダイムの下にある、コインの表裏のような関係にあるではないだろうか。
また本書には、2008年にナンシーが書いた「民主主義の実相」という論考が収録されている。
現代思想において民主主義というと、フランスではアラン・ルノーやリュック・フェリーといった人たちが、西欧近代と民主主義を肯定する立場から文化的多元主義や相対主義を否定しており、そうした論客であるミシェル・フーコーやドゥルーズとガタリらを否定せんがために、彼らの現代思想の根源にあるニーチェを否定すると称して『反ニーチェ』なる稚拙な内容の本を出したりしている。
むろんナンシーのいう民主主義とは、EUの社民官僚のごときアラン・ルノーやリュック・フェリーらの反動的なものとは違い、システムの複雑化に対する、民主主義そのものの再定義を含んでいる。
たとえばナンシーは民主主義について、「68年5月」の経験をふまえてつつ、ニーチェの「価値転倒」を評価する立場から、民主主義を政治や社会にわたる多様な人々の共同性にかかわるものとし、いわゆる政治的民主主義への還元を否定する。
ナンシーの論は抽象的で難解だが、そのいわんとするところは政治的民主主義に還元されるものではないこと、そして主体の問題にかかわるものであることは理解できよう。
「民主主義が言わんとしていること、それは、死も生も、それ自体として価値をもつのではなく、分有された実存のみが、しかも、自らの究極の意味の不在に対してと同様に、自らの真の——そして無限の——存在の意味に対してさらけ出されたものとしての分有された実存のみが価値をもつということである」(本書160ページ)。
「人民が主権者なのであれば、人民は、バタイユが、主権〔志向性〕とはなにものでもないと書いたときに考えていたものを引き受けなければなるまい。主権は、いかなる人格にも委託されなし、いかなる輪郭においても形象化されないし、いかなる墓標の上にも建立されない。それはまったくただ、至高のものなのである」(本書161〜162ページ)。
ここから分かることは、ナンシーが考えている民主主義とは、近代の民主主義イデオロギーを共有する人たちが説く「大きな物語」という意味を含んでいるものではないばかりか、それを説いてきた左翼がその役割を担うものでもないことはいうまでもない。
バタイユが述べたように、人民は、主権とはなにものでもないというものであり、かつ「分有された実存」のみが価値を持つのである。
さらにナンシーはルソーに対する批判などにも言及した上で、ニーチェ的民主主義が必要だと述べている。ナンシーにとっての民主主義とは、「民主主義とは平等主義的な貴族制」(本書165ページ)であり、かつ「民主主義とはまずもって形而上学なのであり、その次にのみ、政治なのである」(本書167ページ)。
まず「分有」とは、プラトンのイデア論において、本来のものは神の世界つまりイデアの世界にあり、この世にあるものはその分有、与りにすぎないという意味であり、実存というのはこの世に現存在するということだが、ハイデッガー的には、この世に投棄される形で生を授かった人間は何もない存在だが、同時に今ここにいるという意味合いを持っている。
ナンシーのいう民主主義とは、一方には「神の影」を感じつつ、同時にハイデッガーの実存主義の「影」といったものを感じる。
ちなみに実存主義の「影」とは、ミシェル・フーコーの論述に対しても強く感じてきたことだが、この問題については、より深く考えていたいところである。
フクシマの後で: 破局・技術・民主主義/以文社

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