中学受験でるでるシリーズ 鎌倉時代について | 寺子屋楠 『生涯教育コンサルタント』楠木誠治の       教育お悩み相談所

寺子屋楠 『生涯教育コンサルタント』楠木誠治の       教育お悩み相談所

心理学、脳科学、コーチングにも精通した
『生涯教育コンサルタント』の教育に関するお話しと
ちょっと生きるのが楽になる話

みなさん、こんにちは。今日は鎌倉時代(かまくらじだい)についてお話しします。鎌倉時代は、日本の歴史の中で初めて武士が主導する政治が行われた時代です。わかりやすく説明するので、一緒に学びましょう!

鎌倉時代の始まり

鎌倉時代は、1185年に源頼朝(みなもとのよりとも)が平氏(へいし)を倒し、鎌倉に鎌倉幕府(かまくらばくふ)を開いたことから始まります。正式には1192年に源頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたことで、本格的に武士の政権が誕生しました。鎌倉幕府は、1333年まで続きました。

源頼朝と鎌倉幕府

源頼朝は、初代の将軍として幕府を開きました。鎌倉幕府では、将軍が政治を行い、御家人(ごけにん)と呼ばれる武士たちが将軍を支える仕組みが作られました。御家人たちは、将軍から土地や地位をもらう代わりに、戦いがあれば将軍に忠誠を誓って戦う義務がありました。

北条氏と執権政治

源頼朝が亡くなった後、彼の妻の北条政子(ほうじょうまさこ)とその家族である北条氏(ほうじょうし)が力を持つようになりました。特に、北条政子の父である北条時政(ほうじょうときまさ)や、北条政子の弟の北条義時(ほうじょうよしとき)が重要な役割を果たしました。

北条氏は、将軍の補佐役である執権(しっけん)という地位を握り、実質的に幕府を支配しました。この政治体制を執権政治(しっけんせいじ)と言います。

承久の乱

鎌倉時代の中でも大きな事件の一つが承久の乱(じょうきゅうのらん)です。1221年、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が北条氏を倒そうと反乱を起こしましたが、北条義時により鎮圧されました。この戦いに勝った北条氏は、さらにその力を強め、全国の土地を管理する力を手に入れました。

元寇

鎌倉時代の後半には、日本が外国から攻められる大きな事件が二度ありました。それが元寇(げんこう)です。元(げん)という中国の国が、日本を征服しようと1274年と1281年に大軍を送り込みました。この二つの戦いはそれぞれ文永の役(ぶんえいのえき)と弘安の役(こうあんのえき)と呼ばれます。

日本の武士たちは団結して元軍と戦い、元寇を防ぎました。特に、弘安の役では神風(かみかぜ)と呼ばれる強い台風が元軍の船を沈め、日本を守ったと言われています。

御成敗式目

鎌倉時代には、武士たちのための法律も作られました。それが御成敗式目(ごせいばいしきもく)です。1232年に北条泰時(ほうじょうやすとき)が制定しました。この法律は、武士たちが守るべきルールを定め、公正な裁判を行うための基準となりました。

鎌倉時代の文化

鎌倉時代には、武士の文化が発展しました。武士たちは剣術や弓術といった武芸を重視し、武士道(ぶしどう)の精神を育てました。また、禅宗(ぜんしゅう)という新しい仏教の宗派が広まりました。禅宗は、中国から伝わり、座禅(ざぜん)を組んで心を落ち着ける修行を重視しました。

特に有名なのが、建長寺(けんちょうじ)や円覚寺(えんがくじ)といった禅寺です。これらの寺院は、武士たちの精神修行の場として重要な役割を果たしました。

鎌倉時代の終わり

鎌倉時代の終わりには、北条氏の力が弱まり、全国で反乱が起こるようになりました。1333年、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府を倒すために挙兵し、足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)といった武士たちが協力しました。

後醍醐天皇の軍は鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府は滅亡しました。これにより、鎌倉時代は終わり、次の南北朝時代(なんぼくちょうじだい)と室町時代(むろまちじだい)へと続きます。

まとめ

鎌倉時代は、日本の歴史の中で初めて武士が政治を行った時代です。源頼朝が鎌倉幕府を開き、北条氏による執権政治が行われました。また、承久の乱や元寇といった大きな事件があり、武士たちの文化や法律が発展しました。鎌倉時代の出来事や文化は、今の日本にも大きな影響を与えています。

みなさんも、鎌倉時代の歴史をしっかりと学び、日本の文化や歴史について深く理解しましょう。これからも、歴史の勉強を楽しんでくださいね!