教育で世界を平和に
ワクワクを仕事に
答えは1つじゃない!
『生涯教育コンサルタント』楠木誠治です。
先日
「知多のだるま寺」こと、大興寺にて、
子育てについてお話をする機会がありました。
中でも、
「子供の世界」「大人の世界」
の話は、多くの方が気付きを得られており、
子どもを見守るということがよりしやすくなったのではないかなと思います。
一部中身を載せておきます。
子育てについて、学びたい!という方は、
ぜひ、パパママアーチングにご参加ください。
また、名古屋市・刈谷市主催の子育てセミナーにも今後参加させていただける運びとなっておりますので、
日程など決まりましたらご連絡いたします。
以下一部抜粋
では、子供の見守り方を考えるうえで、大人の国と子供の国があることをまずお話したいと思います。モンテッソーリはこのように表現しています。「大人は環境を完全にしようとするが、子どもは自分を完全にしようとする」私たちの世界、つまり大人の世界では、「最小の努力と時間の節約」という仕事の原則や、「休息」や「仕事を変わって行う」ということはとても良いこととして扱われます。私たちは仕事をすればエネルビーを消費し、疲れてしまうのです。しかし、子供たちはというと、仕事をするとエネルギーが増えるのです。こちらが疲れてしまっても、子どもはまだまだ元気に遊びまわっていたりします。そんなときに無理に休憩させる必要はないのです。大人の世界においては、子供たちが息子であり、配下であったとしたら、子供の世界では、大人が息子であり配下です。私たちは子供の製作者ではなく、保護者であることをわすれてはなりません。モンテッソーリはヨーロッパ・イタリア出身なので、キリスト教ですが、学校の机や勉強をこのようにたとえています。「机はキリストの手足を打つ釘であり、勉強は頭に刺さるバラの冠」そうして毎日を過ごす子供たちは、あまりの人工物の中で生きられず、見張られた中で埋葬される。それでも、生き返る。
あまりにも強烈な表現のように思えますが、これはキリスト教における教育という概念が日本のもともとあるそれとは大きく違うことが原因です。聖書において教育者は「あなたがたの子どもに鞭を控えるな」と記されているように、教育=罰という考え方でした。しかし、日本の教育は本来違います。教えるという言葉の語源はをしむであり、それは愛しむと書きます。つまり、愛することこそ、おしえるということだったのです。つまり、日本においては教育=愛でした。しかし、西洋の考えが輸入された明治期、軍事国家へ向かう時代背景から、軍隊の教育に都合の良い現在の教育スタイルが確立されます。教育=罰になってゆくのです。
子供の国への関与の仕方は、大人の国のそれとは違います。こんなエピソードがあります。いつも騒がしくしていた子たちが、あるとき、急に黙って静かにじっとすることをはじめました。こんなに落ち着いていられるのかと感動したモンテッソーリは、次も黙っていられたらお菓子をあげるよといいました。すると子供たちは言いました。「僕たちの美しい時間を奪わないで」
このエピソードの示す内容は子供たちにとっての目的をうばわないということだと思います。こどもの国では。自分を完全にしようと仕事をしています。決しておかしのためではないのです。そして、最短距離や効率化とは無縁なのです。こどもの国での接し方を一言でいうと、「それを一人でするのを手伝って」なのです。