ヨガと瞑想で自己中心的になる? | 寺子屋楠 『生涯教育コンサルタント』楠木誠治の       教育お悩み相談所

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ほんまでっかの内容

 

ドイツ マンハイム大学が

93名のヨガ実践者と

162名の瞑想実践者を観察調査したところ、

終えた実践者は、自己高揚感、自己中心性(わがまま度)が高くなることが分かったとのこと。

 

終えると幸福感が出るのだが、心が鎮まって幸福感を得るのではなく

自己中心的になり、自分のことが好きになって幸福感を得ていた

 

この論文を読んでいないので何とも言えないが、自己中心性をどのようにはかったのかと、

自己中心性が高いことをどう評価するかが大事だ。

 

わがままって大切。

 

他者のことを全く考えないわがままは、どうかと思われるが、

他者のことを考えすぎるあまり、わがままが言えないのも、どうかと思う。

 

社会にでると、様々な重圧があり、わがままが言えなくなってしまう。

社長に対して、

姑に対して、

夫・妻に対して

お互いにわがままが言えないと言うのは不幸なことだと思う。

 

子どもも、わがままが言えるうちはいいが、

妙にききわけが良くなってきたら、危険信号で、

親に対して言っても無駄だと思われたりしているかもしれない。

 

さて、自己中心性が高いことが良いのか悪いのかはおいておき、

なぜヨガや瞑想で自己中心性につながるのか。

 

そもそもヨガや瞑想は、おおもとは何なのか。

これは、やっている人によって、これがもとですというのは違うし、

考え方も違うのだが、それは、その人が誰に教わったかに起因する。

 

たいがいの場合、それを鵜呑みにして、私たちが考えていることが正しいのですよーとなるので、

ある種宗教的かなとおもうが、

いずれにせよ、ヨガが通常の運動と違うのは、精神に働きかける作用があるということだ。

 

自己を見つめるという作業がはいっていることが、これらの共通点であるといえる。

もちろん、自己を見つめると、自分なんてないことに気が付くし、

それでも自分を見つめるのは、円の中心を探すような作業で、存在するが存在しないものなわけで、

そこまで行けば、自己そのものもあってないわけなので、わがままかどうかはもはや

自分の解釈では判断のしようすらなくなる。

 

ここまでいけば、わかると思うが、

ありのままの自分を認め、自己を否定も肯定もしない状態というのは、

世間的にみれば、わがままであったり、自己中心性が高い状態であるといえるわけだ。

 

もちろん、もっと世俗的な話かもしれない。

ヨガも、本来のヨガとかけ離れた、上流階級のたしなみ的なものもある。

瞑想も、マインドフルネスという形になって、ありようが変化した。

それらのビジネスに彩られた内容では、単純に「わがまま」となってもおかしくないが、

そうではないと信じて話をすすめるならば、

 

ありのままの自分でいるということは、

ある程度わがままであるということなのだ。

 

やはり、アドラーの嫌われる勇気を思い出すが、

何も嫌われなさいといっているわけではなく、

相手のためを思って、相手に合わせる行為は、

両方を不幸にするものだ。

 

 

子どもたちにいつも思うのは、

別にいまのままでもみんな十分にすばらしいよということ。

 

もちろん勉強したい気持ちを否定はしないけれど、

勉強ができるかできないかは、本当にたいしたことではない。

それしか評価軸のない、家庭や、学校や、塾をさんざん見てきたけれど、

勉強だけでその子のなにがわかるのか。

 

自己中心的でいいじゃないか。

わがままでいいじゃないか。

 

したいことや、やりたいことがあるってすばらしい。

 

私はみんなを応援します。