meeting point | てらこや 放生庵

てらこや 放生庵

現役教師でタオイスト、探究者。自然界を旅しながら、何を見ても何かを思い出し、この世界と向こう側の世界に想いを馳せながら紡ぐことたまを発信。自分の事しか書いてはいませんが、それがあなたの人生の謎解きのヒントになれたら嬉しいです。

先日、ある知人の方から「是非、お連れしたい山があって、その山頂には池がある」との事で、行って来た。

その前日は、よせばいいのに、同僚と遅くまで飲んでいた。

翌朝、始発の電車に文字通り飛び乗って、無事に現地入り出来た。


同僚に次の日あれから始発の電車に乗って登山した事を伝えると、ただただ驚かれた。酔っ払っては結構飲んでみんなで憂さ晴らししたからね。


太陽が登る直前に電車に乗り、窓からの景色を楽しむ。渓谷が美しい場所があって、久しぶりに見れるので絶対に見逃したくないなあと楽しみにしていたのもある。


ふと、空を見上げると、

昇龍と空に舞う龍がいるな、

と感じた。

そう感じて実感した後には、もうその内なる感覚も外の空に見えた龍の確信も消えてなくなってしまっていた。

つかめた、と思った瞬間、

それは、手のひらからするり、と抜け落ちる。

いつものように。

一番大切なものは、いつだってつかめない。

それは、それを、ほんの少しだけ触れる事しかできない。



駅で待ち合わせて、お迎えに来てもらい、その山に向かう。

だが、行く道すがら、


「この道はそこに通じているのか?」と思える道を通ることになる。

恐らく、この山に登ろうと思っている人のなかで、実際に向かっても、それに向かう道を探せないままわからずにあきらめる、というパターンに陥る人もいるのかもしれない。

そして、運良く山に入れたとしても、頂上まで辿り着けないこともあったのかもしれない、と思う。

私は幸運な事に、案内したいという想いを持った方がいて、先頭に立って先導してくれた人がいたからこそ、辿り着けたと本当に感謝している。


その山は本当に不思議な山である。

なだらかで穏やかな山ではあるのだが、登るごとに静かさに包まれる。

山そのものの静けさ、穏やかさ、神秘性。

鳥の鳴き声や虫たちの囁きは、普段人が入って来ないからこそのびやかで、穏やかだ。


ほとんど無言で山に登ったのだが、一雨来そうだから、先を急ごうと言うと、


この地は昔、龍の伝説があり、雨乞いの儀式が行われていたのだと教えてくれた。


そこで、合点がいった。


今朝、龍がいたよ、


と伝えると、妙に納得されていた。



二時間半ほど山を登り、山頂に近づくにつれ、霧があらわれた。


山と共に霧に包まれる。



それは、神社で言えば、鳥居をくぐる感覚で、そこから静謐な空気が広がっているのを感じた。


山が白いベールで包まれて、池に近づいていることを教えてくれる。


その池は、枯れている時の方が多いらしく、水がたまっている方が珍しいのだとか。


さて、どうなのか? と先導してくれた知人は少し心配していたが、


私は全く心配すらしていなかった。



山の上なのに平地に見えるそこに、池が広がっていた。


神秘的な池だった。


不思議な事に、空から次から次へと留まることなく霧が池に集まり、池の中心部に吸い込まれてゆく。


まるで池の底に誰かがいて、水気を含んだ空気を吸い込んで、呼吸をしているみたいだった。


池のほとりに座り込んで、それぞれが、ここでしかできない自由な時間を味わう。



息を切らして身体をそこに向かわせてたどり着く。


そこに実際に行かなければわからない事がある。


meeting pointなるものがある。


その場にいると、自然にこの世ではない、別次元の呼吸ができる。


ということは、この世界と別次元を繋ぐ場所なのだ、と理解できた。



先人達はそういう感覚をごくごく自然に分かっていて、


天に届く場所で、


祈りを捧げていたのだろうなあと思う。


現代を生きる我々は、先に道をつけてくれた先人達をどう超えて行けるのだろうか?



下山した後は、疲れたねえ〜を連発。


こういう実感が一番大事で宝になる。


息を切らして文句を言って、実際に身体を使ってくたびれること。


今の時代だから、特に大事だと思う。