第13回読書会レポート② | 寺田真理子オフィシャルブログ

第13回読書会レポート②

第13回読書会レポートのつづきです。

 

第13回読書会レポート①はこちらをご覧ください。

 

 

105ページでは、物事を具体的にすることの大切さが語られています。先日、高口光子さんの「元気が出る介護塾」というセミナーを受講させていただいた際、同様のお話がありました。現場の介護職は「人手が足りない」とよく言うけれど、それは具体的にどういうことなのかを考えなくてはいけないというのです。人数が足りないのか、それとも能力が足りないのか。能力が足りないという場合でも、その人は力がなくてできないのか、やり方がわからないだけなのか、それともやりたくないのか、そこまで見ていかなくてはいけません。人手が足りない時間帯はいつなのか、どの業務でどういう状況で発生しているのか、細かく見て言語化していくことの大切さが語られていました。

 

言葉で丸めてしないしまわないことが大切だと思います。たとえばプライベートでも「時間がない」と口にしてしまいがちですが、どういう状況で、どんな時間が、何分、具体的に足りないのかを考えることが大切なはずなのに、「時間がない」と言うとそれで思考が停止してしまいます。私自身も「時間がない」と焦ってしまうことが多いので、そんな時に思い出す本として『パパラギ』を紹介させていただきました。時間に関してこんなことが語られています。

 

 

 

 

“パパラギは、いつも時間に不満足だから、大いなる心に向かって不平を言う。

「どうしてもっと時間をくれないのです」

そう、彼は日々の新しい一日を、がっちり決めた計画で小さく分けて粉々にすることで、神と神の大きな知恵を瀆してしまう。柔らかいヤシの実をナタでみじんに切るのとまったく同じように、彼は一日を切り刻む。切り刻まれた部分には、名前がついている。秒、分、時。秒は分よりも短く、分は時より短い。すべてが集まって時間になる。分が六十と、それよりずっとたくさんの秒が集まって一時間になる。

 

このことはとてもこんがらがっていて、私にはまったくわけがわからなかった。だいいち、こんな子どもっぽいことに必要以上頭を使うのは、ただ不愉快になるだけだったし。ところがパパラギは、そこから大きな知識を取り出している。男も女も、まだ足の立ちそうにもない子どもまで、平たく丸い小さな機械を身につけている。太い金属製の鎖に結び、首にかけるか、手首に革ひもでしばりつけるかして。この機械で時間が読み取れる。読み取り方はむずかしい。子どもは、その気になるように機械を耳に押し当てられ、時間の読み方を練習させられる。

 

(中略)

 

ヨーロッパの町では、時間のひと区切りが回ってくると、恐ろしいうなり声や叫びが起こる。

時間のこの叫びが響きわたると、パパラギは嘆く。「ああ、何ということだ。もう一時間が過ぎてしまった」そしてたいてい、大きな悩みでもあるかのように悲しそうな顔をする。ちょうどそのとき、また新しい一時間が始まっているというのに。

 

(中略)

 

時間というのは、ぬれた手の中の蛇のようなものだと思う。しっかりつかもうとすればするほど、すべり出てしまう。自分で、かえって遠ざけてしまう。パパラギはいつも、伸ばした手で時間のあとを追っかけて行き、時間に日なたぼっこのひまさえ与えない。時間はいつでも、パパラギにくっついていなければならない。何か歌ったりしゃべったりしなければならない。だが、時間は静かで平和を好み、安息を愛し、むしろの上にのびのびと横になるのが好きだ。パパラギは時間がどういうものかを知らず、理解もしていない。それゆえ彼らの野蛮な風習によって、時間を虐待している。“