明日、読む、宮沢賢治の「春と修羅」は、心の洗われる大人のための朗読会始まって以来の、重く、暗いテーマです。

 

朗読会は、すでに80回を越えていますが、なんどか私の朗読会に来ていただいた方は、私がどれだけ暗いテーマを避けてきたか、お分かりいただけることと思います。

 

ただ…2月の朗読会で申し上げたように、現代は、暗いテーマを執拗に避けよう、避けよう、というきらいがあり、それは、人を思いやる心を育てる抒情教育という点におきましては、決して良い傾向であるとは言えません。

 

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これは、すでに10数年前の新聞に投書された、当時のある若いお母さんからのお悩み相談でしたが、うちの子を寝かしつけようとして、子守唄を歌ってあげたら、寝付くどころか、何かに怯えるように、激しく泣き始めた。これはどうしたというのでしょう。。

 

この読者からの問いかけに、当時の識者たちは誰も答えることが出来なかったそうです。

 

それから1年半も経って、あの時の読者からの質問なのですが…と、ある仮説を唱えた人物がいました。

 

その方の考察によると、現代、家庭において親1人子1人の子育ての中で、昼間はテレビをつけっぱなしにしついる家が少なくはありません。

 

そこから流れてくる、音やコマーシャルに使われる音楽などは、視聴者の気持ちを抑揚させ、購買意欲を増長させるために、明るいメジャー(長調)の曲ばかりが、朝から晩までずっと流されている。

 

子守唄は、マイナー(短調)で作られている。

人の悲しみや苦悩などに同調する優しい心を、育むことが出来る。

 

誰かのために、涙することが出来る。

 

それが、テレビから流れる曲によってすっかりと抜け落ちてしまっている…

 

たしか、こんな考察だったと思います。

 

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詩や小説も、しかりである。

 

私は初め、賢治のこうしたダークな部分を避けようと思い、特に、この光あふれる春に、私の朗読を楽しみに来てくださるみなさんにとっては、ふさわしくないのではないか…

 

こう思った次第である。

(選抜したのは、私であるのに)

 

ただ、賢治の「春と修羅」は初めてだったが、解説を見ずとも、私には、この詩の意味が理解出来たのである。

 

この詩のキーワードとなっている語句は、ZYPRESSEN(ツィプレッセン)=糸杉であるが、賢治自身の心を、知られたくもなく、また、人々の理解も得たいという、二律背反(にりつはいはん)の世界を紐解くのに、うってつけの物象となっている。

 

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解いてみて驚いた。

 

賢治はまるで、【私自身】である。

 

 

明日の朗読会では、随時、賢治の詩と、私の解釈を合わせながら読み上げてゆくが、私の解釈もまた、すでに独立した一つの詩のようであり、それは、先程も書いたが、賢治でありながら、同時にこれは、私自身の姿である。

 

 

”黒い木の 群落が延び

その枝は かなしくしげり

 

すべて二重の風景を

 

喪神(そうしん)の森の梢から ひらめいて とびたつ からす”

 

宮沢賢治 『春と修羅』より抜粋

 

 

私はどこまでいっても、私自身にしかなれない。

 

私が生きるということは、私を伝えるしか、そのすべはない。

 

明日は、前半には、この「春と修羅」をじっくりと堪能いただき、後半には、賢治が生涯において求め続けた理想を、現実のものと成したお釈迦さまの生涯のお話しをもって、私から参加者のみなさまへの希望と喜びの光で満たすという、心の洗われる大人なための朗読会本来の目的を果たして、今季の花咲き、鳥歌う、4月の朗読会の全容と成したいと思う。

 

寺千代(横須賀の朗読家、4オクターブ、7色の声)

 

明日の朗読会については、こちら