日本が正式に2022年のワールドカップに立候補した。

招致が決まれば、わずか前回から20年で開催されることになる。

現在の世界の日本の状況で立候補すること自体に批判的な声もある。

そんなことも百も承知で少し違う視点で日本の現在を考えて見ると。。。



 失われた10

 バブル経済の破たん以降よく使われた言葉である。

 しかし、未だ、世界第2位のGDPで、これまた世界2位の1500兆円の国民金融資産を持つ日本が、いったい何を失ったんだろう?


 私の答えは「チャレンジ精神」である。


 有史以来日本は、大陸、朝鮮半島を通じて様々な外来の製品、技術を輸入し、限られた資源の中、日本固有の文化を形成してきた。文明開化以降は、欧米列強の優れた社会システム、圧倒的な技術力に対し、吸収するだけでなく、欧米を超えるものを構築して、明治維新以降40年を経たずしてロシアを破り欧米列強と方を並べる大国へと成長していった。戦後も同様、世界の平和の象徴的国家として、世界から尊敬を受けつつ、焦土となった国土をわずか戦後19年でOECDに加盟し、先進国となった。その後鉄鋼、重化学、家電、自動車と日本は先進国の中でも主要な位置を占めてきた。

 これら日本の成長のベースにあったのは、日本に暮らす人々の「チャレンジ精神」ではないだろうか。ひとり、ふたりの英雄だけではできないが、それぞれの立場で自分の与えられた職務に忠実に、創意工夫を持って取り組んできた歴史が今の日本を支えてきたと私は考える。商人、職人、農民、役人、政治家、あらゆる無名の人々が、家族からの尊敬を背に、実直に、そしてチャレンジ精神を持って取り組んできた結果ではないだろうか。そして、この勤勉な「チャレンジ精神」を美徳とする教育システムが社会を支えていたと私は考える。


 バブル崩壊以降、もう約20年が経とうとしている。国民の金融資産は約百兆円増え、大学にも全入の時代をむかえた一方、生活保護世帯は約60万世帯から125万世帯に増加した。高度経済長で多くのヒトが経済的な豊かさも手に入れた半面、日本が1000年以上培ってきた、貧しくても、勤勉さ、やりがい、生きがいといった「チャレンジ精神」を美徳とする社会システムが少しずつ崩壊してきたような気がする。しかし、富の発展と共に経済格差が生じるのは日本だけのことではないのだ。

 欧米諸国も大なり、小なり経験してきたし、恐らく今後中国も経験していくだろうと思う。成熟した社会では必ず経験するプロセスである。豊かさは先進国からどんどん途上国に広がり、域内の経済格差拡大もやがて世界各国に広がるかもしれない。。いや、しかし、これは経済的尺度に限ったことである。

 経済的豊かさはわかりやすい指標ではあるが、それだけで豊かさは語れない。個人のレベルでは、むしろ、一つの達成するための基準にしかすぎないかもしれない。。


 これからの先進国は、むしろ経済的豊かさ以外の指標を世界に広げていくことも必要ではないだろうか。特に日本は、そうすべき大きな2つの「チカラ」を持っている。それは世界平和と先端技術である。

 日本は不幸な戦争を加害者として経験し、世界唯一の被爆国となった。資源に乏しい日本は、維新以降、戦前までは戦うことで自国を表現してきた。しかし、現在では「戦争」ではなく、世界トップレベルの「先端技術」で世界の尊敬される国になった。賛否はあるが、平和憲法で軍隊を持たない国として、「武器」を「先端技術」に持ち替えている唯一の先進国である。


 そんな日本が2022年のワールドカップに再び立候補した。


コンセプトは、

「208 Smiles」地球上の隅々にいたるまで、“笑顔をもたらすワールドカップ”


 先進国から成熟国になりつつあるニッポンとして、経済とは違う豊かさの指標「Smiles」を208の世界各国に広げようとしている。

 これは、「武器」を「先端技術」に持ちかえ、先進国になったニッポンでしかできないメッセージと理念である。



 日本でワールドカップを開催し、世界平和と先端技術で、208の世界各国の子どもたちに笑顔を届けることができたら。。

 ワールドカップ招致が、日本に暮らす人々に「チャレンジ精神」を思い起こすことができたら。。


 

今だからこそ日本が取り組む大切なプロジェクトだと私は思う。













iPadの発売で、最近やたらとこれからの本の行方についての報道が目につく。

しかし、

本当にアナログ書籍がなくなるだろうか?

グーテンベルグが活版印刷技術を発明して500年以上が経つ。

おそらく、この発明と産業革命以降の飛躍的な技術の発達によって、「アナログ書籍」は表現媒体として、文明社会にとって不可欠なものになった。ここで忘れてはならないのは、書籍は文字・絵を伝達する「媒体」の1つにしか過ぎないことである。文字の歴史は文明と同時にほぼ始まり、古くは古代エジプトのパピルスは言うに及ばす、洞窟の石に彫られた絵文字など何千年の遥か昔から続くのだ。文字を表現する媒体が、洞窟の壁、石、紙、「アナログ書籍」と進化し、大衆普及するための印刷技術が高度かされ「アナログ書籍」が世界に不可欠なコミュニケーションツールとして普及してきたではないだろうか。日本でも源氏物語、竹取物語といった「アナログ書籍」が1200年以上前から存在し、今の社会でも恋やSFのバイブルとして語り継がれるロングセラーなのだ。

ここで少し視点を変えると、40歳過ぎの方は記憶されているだろうが1970年代後半にデジタル液晶腕時計が発売されたころと何となく似ている。それまでの文字盤腕時計に加え、多機能の液晶腕時計があっという間に普及し、文字盤時計が一気に世の中のマイナーな存在になった。しかし、今ではどうだろうか?おそらくデジタル腕時計は安価なイメージで、一部スポーツウォッチを除き、世の中のマイナー品に成り下がったイメージがある。おそらく、嗜好品として、持つ人の個性を表現するアイテムとして文字盤時計が長い伝統とデザイン性で多くの方に支持されているからだろう。

 確かに、電子ブックは便利だ。あらゆる必要な情報をダウンロードし手軽に複数の著作物を1つの電子ブックで表現できる。重たい本を持ち歩かなくてもいつでもどこでも手軽に読むことができる。ある大学では来年から入学者全員に配布し、授業を行うとの報道も目にした。

しかし、だからと言ってアナログ書籍はなくなるだろうか?先ほどの腕時計同様に新しもの好きの人々のブームでしばらくは話題にはなるが、全国民に継続的に普及することはないのではないかと思う。もちろん、電子ブックのユビキタス機能がビジネスの世界では標準化する可能性あるだろうが。。。。

紙の書籍は媒体機能として普及してきたが、そこには装丁、質感、文字感と様々な要素が付加されている。学生の教科書としも科目毎に「本」であるこが学習効果を高め、「記憶深度」「情報深度」を掘り下げていくのではと考える。

もしデジタル社会が普及し、天災で一気に人類が滅亡することになったら。。。

なぞのナスカ文明、インカ帝国のように、21世紀の世界は「文字を残さなかった時代」として、後世に歴史ロマンを与えるかもしれない。。。。