“自宅近くの実家は代々農家で、高さが1間(約1、8メートル)ほどの大きな仏壇がある。幼い頃、父は毎日のようにその仏壇の前で正座しやや頭を下げてお経を唱えていた。「羯諦、 波羅羯諦・・・」という響きが「かいてぇ、腹かいてぇ」と聞こえ、妙におかしくて今でも忘れられない。
 後年、写経に親しむようになり、あれは般若心経の一節だと知った。私の家に仏壇はないが、当時を思い出し般若心経を唱えることがある。そんな中、般若心経は亡き人のためというより、今を生きる者が苦しみから離れて、幸せへ向かうための教えなのだと感じるようになった。一日一日を大切に明るく元気に過ごすこと。それが、今の私にとっての読経である。父とは少し違う形で、仏教と向き合っている気がする。”(5月15日付け中日新聞)
 
 愛知県一宮市の後藤さん(男・78)の投稿文です。状況は結構違いますが、ボクも同じような立場にあります。ボクの家にも1間の仏壇があります。ボクの家では父でなく、母が毎朝毎晩お経を上げていました。そして般若心経でなく、正信偈です。少し調べてみると、『正信偈』は親鸞聖人の書き残されたものでお経ではないとあります。親鸞聖人の主著の『教行信証』の一部で、お釈迦さまの説かれた一切経を圧縮して仏教の真髄を明らかにされたもの、とあります。でも一般には簡単にお経と言っているでしょう。
 そして数年前、ボクもほぼ毎日読経をしていました。ここ忘れています。この投稿文からまた復活しなければと思っています。無心とは言えないが、1人になる時間です。声をあげることもいいことです。日課に組み入れたい、と改めて思いました。