“三歳年上の姉からセピア色の手紙とはがきの束を渡された。一九六五(昭和四十)年ぐらいから私が姉に出した五十通ほど。感染が拡大する新型コロナウイルスの影響で姉は外出を自粛する中、終活としての身辺整理をしてそこで見つけたという。
 切手も七円、十円、十五円、二十円などと懐かしく、文章を読むと思い出がよみがえってくる。田舎に嫁いだ私は当時の生活とともに、わが子や姉の子の成長をああだった、こうだったとつづっていた。苦しくてつらかったこと、とても楽しくうれしかったことなども書かれていた。今五十歳を超えたわが子に見せ、若い頃の私の日々を伝えたいと思う。「お姉ちゃん、ありがとう」―。”(2月23日付け中日新聞)

 三重県津市の奥村さん(女・76)の投稿文です。昭和40年ぐらいと言われるから、もう50年以上昔の頃である。その頃からお姉さんに出した50通ほどの手紙が渡されたという。もう懐かしさである。10年一昔と言う言葉があるが、50年である。この間の変わり様は凄まじいものであった。記憶は薄れるものである。何か残されているものがあると、それをきっかけにいろいろな思い出がつながっていく。手紙は特に良いだろう。事実と共に気持ちも書かれている。
 人生は思い出作り、と言う人がいる。人間は思い出で生きる、と言う人もいる。もちろん過去は振り返らず、前を見て積極的に生きるのも一つのあり方である。でも、今は一瞬にして過去となる。過去を持たなかったら、すべて忘れたら虚しいのではなかろうか。
 ボクはいろいろなものを残している方だと思う。「路」と題した綴りが百何十冊とある。思い出の品物の綴りである。人から見ればただの紙くずである。でもボクには宝物である。「私の宝物」と題した次の随想を読んでいただけるとありがたい。
  http://terasan.dousetsu.com/zu021.htm
 断捨離、断捨離と言われる。そのメリットもよく述べられている。全く否定するつもりはないが、でも無理にする必要はないと思っている。ボクも本など一部捨てたが、多くはそのままである。幸い、ボクの家には場所がある。