居合の稽古で。
その動作は、敵の動きをどう判断し、自分の対処をいつ決断しているのか?
そんなことを考えたのですが。
これには、もっと先があるであろうと感じていて。
形を演武する、というのは「決まり事」に従って動作していくわけだけれど、その形にまとまった経緯があるはず。
こういう攻撃、打ちかかってくるときには、この対処法がある、と。
相手が、敵がどう動いてくるか、その判断と決断。
それらを学んでいく、と。
最近、さらに進んだ段階があると考えられるようになってきて。
居合道より広く行われている日本剣道形。
これも動作には「決まり事」があるけれど。
一本目の次は二本目、三本目…と決まり事をたどっていくわけだけれど。
その中にも間のとらえ方とか、対処の仕方とか、身体の運用とか、学ぶべきことがあるけれど。
いつ打ちかかっていくか、それにどう対処するか、そこを学ぶわけだけれど。
その究極は。
たとえば太刀二本目と七本目は双方が中段の構えから。
では、打太刀が二本目と七本目、どちらをやるか仕太刀に伝えずに演武したらどうなるか?
仕太刀はどう対処するのか?
それを本身、つまり真剣でやったらどうなるのか?
形の稽古の行く先は、そういうことになるんじゃなかろうか、と。
次に何が来るのか分からない、そういう状態で演武し、技が出せるかどうか。
つまり、判断、決断を練りに練っていくと、反応というレベルに達して行くべきで。
さらには形に収まらない、自然で、合理的な技が「出現する」。
そういう段階に行くんじゃないか、と感じているんです。
・・・できないけど。
そう、だから、そこに形の意義があるんじゃなかろうか。
居合道でも、ある先生から言われたことがあって。
例えば、全剣連制定居合の立ち技。
これも普通に演武すれば五歩目の次は六本目、七本目と順序を追うわけだけれど。
一歩、二歩と歩を進めて、柄に手をかけたとき、五本目になるのか、六本目になるのか、あるいは八本目か、
次のどの技をするのか、ではなく、どの技に「なるのか」。
そういう反応レベルの演武にならなければいけない、と言われたことがあり、それがようやく「なるほどね」と感じるようになってきた、今日この頃。
・・・すぐにはできないけど。
剣道でも、応じ技の稽古とかするけれど。
地稽古で、相手の動きを予想して、相手を読んで、シナリオを描いて、相手の動作を見て応じる。
読みが当たって、シナリオ通りに動ければ技が決まる。
でも、それだと「当てっこ」だ、と言われる段階であろうな、と。
稽古を積んで、練ってねって練り上げて、相手の打ってきたところ、打とうとしたところに、こちらが「あ、うまく打てちゃった」と技が出現するようなものが本物の応じ技や出鼻技(でばなわざ)だったりするのではなかろうか。
だから、ぼっこーんと打たれたとしても、
「あれ?オレのセンサーはいま働かないのね」
とか
「ここで敏感になるにはどうすればいいのかなぁ」
とか
「いまシナリオを思い描いてたし」
とか
「仕掛けたけど、相手のセンサーを反応させちゃったな」
とか
判断・決断の段階から反応へ、技の出現のレベルへと課題を持っていくのが良いのかな、と。
・・・まだまだできないけど。
・・・遠すぎる道のり。
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