「共依存」って言葉は被害者断罪のためにあるんじゃないよね? | そして、私はモラをつかむ女

そして、私はモラをつかむ女

夫がモラです。モラからは逃げるが一番。でもつかんでしまった以上、一緒にいなければならない期間もある。どう過ごすのか。モラのダメージを受けない方法を模索し、自分の何がモラを寄せてしまうのかを考えます。

 共依存――。

 モラハラが語られる時に、いまや対になって語られる言葉(概念)ですね。

 でも私は、この言葉の使われ方が間違っているのじゃないかと、常々感じているんです。


 結論から言います。

 この言葉は、被害者を理解するためにあるのであって、決して断罪するためにあるのではない、ということです。



 たとえば、同じような例として、「うつ病」という言葉があると思います。

 何もする気になれなくて、無力感に襲われて、自分は存在しないほうがいいのだとまで思いつめてしまう、けどみたところ病気には見えない。

 この状態の人を、決して怠けているわけではなくて特別な対応が必要な状態であるのだ、ということを理解するために、「うつ病」という概念があるのだと思います。

 この言葉は決して、人がうつ病っぽい状態を見せた時に、「あんたうつ病だね!」と言い放つためにあるのではないのです。

 また、当事者にとってもこの言葉は、自分が役立たずだったり情けない人間だったりするわけではなく、ある特定の状態になってしまっていて助けが必要なのだと知るためにあるのです。

 決して自分がうつ病という名のダメ人間になってしまったのだと思うためにあるのではありません。



 もう一つの例ではアダルトチルドレンという言葉(概念)があります。

 私は自分がアダルトチルドレンだと思っています。この言葉(概念)を知ることによって、自分の苦しみの原因がわかりましたし、同じ苦しみを抱えている同じような境遇の人たちがいるということが分かりました。

 また、自分に湧きおこる感情にアダルトチルドレンとしての傾向があることを理解し、必ずしもそのように感じなくてもいいのだと知ることが出来ましたし、感情を否定しないで十分に感じ切るほうがいいこともあるのだと知ることもできました。

 ですがモラ夫は、私をけなすためにこの言葉を使います。私の気持ちや感情を間違っていると非難するために「アダルトチルドレンだな!」と。
 

 この類の言葉は当事者の状態を理解するためにある筈なのですが、あまりよく考えないで使うと、その人に押される烙印、その人が感じている感情や気分を否定するための烙印となってしまいがちなのですよね。
 実はうつ病という言葉は、なんとかうまく機能するようになった、いい例だと思います。


 で、「共依存」というのも、これらの言葉と同じだと思うのです。

 モラハラにあっている人が、別れればいいのになかなか別れようとしない。そんな状態を見たときに「ああ、この人は今、共依存の状態にいるからそう簡単に別れようとは思えないのだな。モラハラされるのが好きなわけでは決してなくて、苦しくてたまらないのに、居場所がそこにしかないように感じてしまっているのだな」などとと理解するためにある言葉の筈なんですよね。

 ところが、「あなた共依存ですよ!」ってなにか、「相手もモラハラだけどあなたも共依存だからお似合いだね」的に、もっというと「同罪なんじゃない? 自分も悪いんでしょ」的に、「あなたも抜け出す気ないんでしょ。モラハラされてるのが居心地いいんでしょ」的に使われている気がするのです。

 被害者のほうも、「自分は『共依存』というダメ人間になっているのだ」という風に、自分の落ち度としてとらえてしまっている気がすることがあります。

 「自分は抜け出すのが怖いけれど、それは共依存のせいでそう感じるので、この気持ちには従わないほうがいいのかもしれない」というふうに、自分の置かれている状態を把握する助けに使えばいいものだと思うのです。


 ずっと、何か変だと思っていて、やっと書けました。まだ言葉が不正確かもしれませんが、とりあえずアップします。みなさんのご意見で補足していただけたらと思います。





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