ども、自分です。

 

昨日の南日本新聞に、今年の8月から9月に行われた東京パラリンピックについての共同通信が実施した全国の障害者を対象にしたアンケート結果が紹介されていました。

なかなか興味深い内容です。

まず、7割の方が障害への理解が進んだと回答されている、とのこと。

確かにそういう面もあるでしょう。

上下肢が欠損していたり、視覚障害があったり、知的障害があったり、といった、いろいろな障害者の姿がメディアで映し出されることにより、“健常者”が日ごろは目にしてこなかった(目にしても気付こうとしなかった、というのも含めて)「障害者」を見る(知る、ではなく)契機にはなったかもしれません。

ああ、こういう姿で生きている人がいるんだ、みたいな。

 

ですが、僕としては、それが「理解が進んだ」と同じ意味を持っている、とは到底思えません。

上の文で「「障害者」を見る(知る、ではなく)契機にはなった」と書いたのはそういう意味です。

だからこそ、差別を受けたとの回答をした人の割合は変動がないのではないでしょうか。

 

つまり、パラリンピックは、「こんなに大変な障害を負っていてかわいそうでもがんばっている人がいるんだから、自分もがんばらなくては」といった感じで、“健常者”を鼓舞したり、感動を与えたり、といった意味での効果(=「感動ポルノ」としての効果)は大きいでしょう(外見が普通とは違う度合いが大きければ大きいほどその効果は大きい)。

でも、それはそこでおしまい。

まるで、「〇〇時間テレビ」と同じように。

パラリンピックが閉幕すると同時に、「障害者は自分とは異なる世界の人だから自分には関係のないことだ」という、開幕以前の状態に戻る。

いや、パラリンピック実施中もそんな認識で見る人が多かったかもしれません。

「自分とは異なる世界の人」ががんばってるな、みたいな。

下手すれば、ここから、障害者はがんばっている人、みたいな概念が作り出されて、障害者に無理で不要な努力を強いることにもなりかねません(あ、話がそれますが、障害者のことを「チャレンジド」ということがありますが、僕はこの言葉は好きじゃありません。障害者に挑戦を強いているようで、挑戦するか否かの自由を奪っている感じがあるからです)。

 

そんなんじゃ、障害理解が進むはずもなく。

パラリンピックだけを見ていても、機能障害(impairments)の種類には詳しくなるかもしれませんが、disabilityとしての障害のことについての見識が深まるはずもなく。

 

障害者権利条約は、その前文において、「障害(disability)」のことを以下の通り定義づけています。

「(e)障害が発展する概念であることを認め、また、障害が、機能障害を有する者とこれらの者に対する態度及び環境による障壁との間の相互作用であって、これらの者が他の者との平等を基礎として社会に完全かつ効果的に参加することを妨げるものによって生ずることを認め、」

この定義からして、パラリンピックを見ただけでは障害理解が進むはずはありません。

進むのは機能障害の種類の理解です。

 

そして、これを書いていて思ったのは、パラリンピックって、まさか、「分離すれども平等」の表れなのかしら、とも思ってしまいました。、

記事で紹介されている障害者の言葉の中に、「「共生社会の実現」というのなら、五輪とパラリンピックを分ける必要はないのではないか」というものがありますが、理念としてはそうであるべきなのかもしれません。

あ、パラリンピック自体を否定しているわけではありませんので、その点はお間違えなきよう。