「お、お兄ちゃん子にもほどがあるだろ。」
私が無理やり笑って見せると、翔も苦笑いする。
「ほんと、そうだね。」
翔の手が玉ねぎの皮を剥く。
茶色の皮を剥かれた玉ねぎが、白く瑞々しい姿に変わっていく。
聞くか?
あのキスのことを。
本人に直接?
私に聞けるのか!?
キャベツを刻みながら、何気ない風を装って声を掛ける。
「翔は……。」
翔が、まな板の端の方に玉ねぎを乗せて私を見る。
そのつぶらな瞳を見ていると……やはり聞けない。
「い、いつから智と呼ぶようになったんだ?」
話を変える為、どうでもいいことが口を突く。
翔は気づいた時には智を智と呼んでいた。
お兄ちゃんと呼んだことはあったのだろうか?
保育園の頃は智ちゃんと呼んでいたはずだ。
キャベツを切り終え、翔の言葉を待っていると、
翔は玉ねぎに包丁を当て、じっとそれを見つめている。
「智はさ、あんな感じだから、一つ上でもあんまり気にしないじゃん?」
そりゃ、保育園児はあんまり気にしないんじゃないか?
でも小さい頃の一つの違いは大きい。
体も心も。
「だから、小学校……三年生の頃かな?智って呼んでみたんだ。」
翔が三年生ってことは智は四年生。
ギャング期と呼ばれる頃だ。
人との繋がりが見え始め、グループで行動し始める頃。
翔が玉ねぎの真ん中に包丁を入れる。
ストンと良い音をさせて玉ねぎが半分に分かれる。
「智が、ん?っていつもよりちょっと嬉しそうに笑ったんだ。
だからそれから……智って呼ぶようになった。」
嬉しそう?
智を智と呼ぶのは私しかいない。
呼び捨てにされることで家族を感じたのだろうか。
「智は呼ばないだろ?翔のこと呼び捨てで。」
「あんまないかなぁ。でも、たまにある。」
「たまに?」
翔が玉ねぎを自分の前に並べ、私の顔を見る。
私は切ったキャベツをボウルに入れ、玉ねぎを指さす。
「そのまま繊維に沿って細めに切ればいいよ。」
翔は恐る恐る包丁を下す。
ストンと、太めに玉ねぎが切れる。
「もうちょっと細い方がいいかな。」
「これくらい?」
翔が包丁を翳したのは、5ミリ幅くらい。
「それくらい。」
また包丁を下すと、ストンと玉ねぎが切れる。
今度は斜めに入ったか。
5ミリだった幅が、下になるにつれ、どんどん太くなっていく。
「代わるか?」
聞くと、翔がうなずく。
「じゃ、翔はタレを作って。みりんと醤油。」
言われた翔が、みりんと醤油を取り出す。
「たまにって、いつ言われたんだ?」
さっきの続きが気になる。
私が知る限り、智が翔を呼び捨てにしたことはない。
「……寝てる時。」
寝てる時?
寝ている翔を起こす為に?
それは呼び捨てになってもしょうがない。
なんせ翔はなかなか起きない。
最初は笑って翔ちゃん起きてと起こしていた和美も、しまいには大声で怒鳴っていた。
「起きろ翔!すぐに起きないと智ちゃん一人で行かせるからね!」
それでやっとフラフラしながら起きていた。
一人で学校に行くのはそんなにイヤなのかと笑ったものだが……。
「起こすのに呼び捨てはしょうがない。」
「……起こさないように、小さな声で。」
翔がボウルを出して、醤油を持ち上げる。
「どのくらい?」
「二周くらい。」
答えて、智が翔に声を掛けているところを想像する。
寝ている翔がなかなか起きないのは智もよく知っている。
その翔を起こさないよう小さな声で?
何のために?
「この間……ケンカみたいになった時、智は俺が一番大事だと言ってくれた。」
そうだろう。
私も翔と智が一番大事だ。
「一瞬、有頂天になったけど……それは家族だからなんだよね。」
そうだよ、家族は何より大事だ。
「翔だってそうだろう?」
「そうだけど……。そうじゃない。」
そうじゃない?
翔は家族が一番大事じゃないのか?
もしかして、今、この間のキスの核心をついている!?
「翔は智を……。」
翔が私を見て、苦しそうに笑う。
「智を、家族だと……、お兄ちゃんだと思ったことはない。」
それはつまり……。
「初めて智を呼び捨てにした頃から、ずっと……。
もっと前からかな?
智を一人の人間として……好きだ。」
一人の人間として……それはまさかの……。
「オヤジは気付いてたんでしょ?俺の気持ち。
俺が……智をそういう目で見てるって。」
翔はみりんを持ち上げ、同じように二周させる。
「一緒に暮らしてたらわかっちゃうよな。
気持ち悪い?」
自嘲気味に笑う翔が、菜箸でみりんと醤油をまぜる。
グルグル回る黒い液体を見ていたら、勝手に言葉が口をつく。
「いいんじゃないか。」
翔が私の方を向く。
「今は多様性の時代だ。いろんな愛の形がある。」
そうだ、いろんな愛があっていい。
いいはずだ。
ただ……まさか自分の息子がとは思わなかったが。
しかも兄弟相手に!
「気持ち悪いなんて思うものか。自分の気持ちに自信を持て。」
何を言っているんだ私は!
煽ってないか?
煽っていいのか!?
「オヤジ……。」
翔が、潤んだ瞳で私を見る。
「ありがとう。」
翔は大事な息子だ。
翔が望むなら望む方向に進ませてあげたい。
だが、本当にこれでいいのか!?
これが、未来ある若者の進むべき道なのか!?
私は砂糖を取り出し、パッと入れる。
「え、そんなに入れていいの!?」
白い塊が、黒い液体の中で茶色に変わっていく。
まずい、動揺して入れすぎた。
今日の生姜焼きは、甘い。