ドシン。
顔が何かに埋まる。
グッと深く埋まって、次の瞬間、跳ね返される。
小さな尻もちをつき、チカチカする頭を振る。
「痛……。」
何にぶつかったのかわからない。
視界のピントが徐々に合ってくる。
大きな茶色い物体……?
「え……何?」
少し顔を引くと、全体が見えて来る。
茶色い物体は大きな縞々になっていて、その中央から長い何かがゆっさと揺れる。
「尻尾?」
ノアは手でその揺れるものを突いてみる。
「ぶつかっといて、謝りもなしか?」
物体の向こうから低い声がする。
そっと、回り込んでみると、大きな細い目と視線がぶつかる。
細い目の端がキラッと光る。
「うわっ。」
ノアの10倍はあろうかという大きな猫。
顔だけでも3倍以上ありそうだ。
「あなたは……誰?」
大きな顔がさらに湾曲する。
「俺の名前はいっぱいあってな……。」
「イッパイアッテナ……?」
大きな口が、三日月のようになる。
「黒い猫はみんな同じことを言うんだな?」
大きな口が、ガハハと笑う。
「みんな……?」
ノアが首を傾げる。
「まぁいい。俺の名前はたくさんあるんだ。
だから、どれが名前かわからない。」
「わからないの?」
「ああ。」
大きな顔が、少し柔らかくなる。
「で、お前は何と言うんだ?」
あ、と思ったノアは、キチンと前足を揃える。
「僕はノア。」
ノアが笑顔を浮かべると、首の鈴がチャリンと鳴る。
「ねぇ、おじさん、この辺で白い猫見なかった?」
「白い猫?」
「うん、毛が長くって、青い瞳で綺麗で可愛いの。」
大きな顔は、ん~と首を傾げる。
「知らねぇな。」
「そっか……。」
しょぼくれるノアに、大きな顔がクイッと顎を振る。
「着いて来な。猫仲間に聞いてやるよ。」
「ありがとう!おじさん!」
「おじさんはやめてくれ。」
「え……。」
ノアは、失礼なことを言ったのかと、ビクッとする。
「そうだな……最近気に入ってる名前がある。
俺のことは虎次郎と呼んでくれ。」
「トラジロウ?」
「そうだ。虎次郎だ。良い名だろ?」
「う、うん!」
どの辺が良い名前なのかわからなかったが、とりあえずうなずく。
地獄で虎次郎なんて名前、聞いたこともない。
「虎次郎さん……よろしくお願いします。」
ノアが頭を下げると、虎次郎が立ち上がる。
その足に、その体が乗ってるのが不思議なくらいアンバランスな体が、
ゆっさゆっさと揺れ、ノアの前を歩く。
慌ててノアも後に続く。
「どこ行くの?」
「まぁ、いいから着いて来な。あそこなら、昼間でも誰かいるだろ。」
虎次郎は角の道を右に曲がる。
「あそこ……?」
ノアは小走りで虎次郎の隣に並ぶ。
「ああ、この時期、昼寝にはうってつけだ。」
虎次郎が大きな体をゆっさゆっさと揺すって歩く。
ノアは遅れないよう、できるだけ早く足を動かす。
「ねぇ、おじ……虎次郎さん?」
「ん~?」
通りすがりの人間が、二匹の猫を不思議そうに目で追う。
「僕……喉乾いた。」
虎次郎が立ち止まる。
「水が飲みたいのか?」
「うん。」
ジュースでもいいけど。
ノアは思っただけで口にはしない。
「じゃ、先にこっちだな?」
虎次郎はクイッと体を曲げ、家と家の間の細い路地に入って行く。
「え、虎次郎さん?」
路地には太陽の光も届かず、薄暗く湿っぽい。
そんなところを、空き缶やレジ袋を避けることもなく、歩いていく虎次郎。
ノアは空き缶らを、ピョンピョン飛びながら避ける。
ヌルッとした土の感触が気持ち悪い。
ガサッと目の前を何かが横切る。
「虎次郎さんっ!」
ノアの体が跳ねる。
「ははは。ネズミだよ。猫がネズミに怯えてどうする。」
「ネ…ズミ……。」
虎次郎は振り返りもせず、路地の終りに向かって歩いて行く。
ノアも仕方なく、ビクビクしながら虎次郎を追った。