思うに、孔子の仁とは、人へのまごころの実践をいうのではなかろうか。一応論語を読んでの感想である。貝原益軒の仁とは、朱子のいう理、人に生まれつき備わっている本性を指すものと思われる。
やっぱり、孔子の仁と貝原益軒の仁とではニュアンスが違う。
最近購入した岩波現代文庫・宮崎市定・現代語訳 論語は岩波文庫の論語よりすんなり頭に入る気がする。いい本だと思う。
徳の実践は、なかなか難しいが、孔子の仁が、実践を重んじるのであれば、自分は何が出来るか考えてみたい。
論語の読者になるなどまったく思ってもみなかった。論語が自分をどう体現化するのか興味深い。何か悟れるところがあるのか?
ほんと論語は難しい。
もっと漢文を勉強 しておけばよかった思った。孔子のいう仁と例えば貝原益軒の仁はちょっと違うような気がする。どうも礼を理解しないと論語が理解出来ない気がする。学者によっても解釈がわかれる。国語3のボクには、論語を理解するにはまだまだ時間がかかりそうだ。
もっと漢文を勉強 しておけばよかった思った。孔子のいう仁と例えば貝原益軒の仁はちょっと違うような気がする。どうも礼を理解しないと論語が理解出来ない気がする。学者によっても解釈がわかれる。国語3のボクには、論語を理解するにはまだまだ時間がかかりそうだ。
婦人公論で大平光代さんが連載しているエッセイ、大平光代の論語的生活は大平さんが論語とどう向き合っているのか参考になる。ボクはまだ論語から演繹できるほど論語を理解していない。
いまは論語に関する本を図書館から借りて読んでる段階である。論語読みの論語知らずである。果たして論語をどこまで理解出来るかまだ未知数だ。
いまは論語に関する本を図書館から借りて読んでる段階である。論語読みの論語知らずである。果たして論語をどこまで理解出来るかまだ未知数だ。
思うに、宗教とは、生きる希望を人に与える思想じゃないかと思った。
その意味で、マルクス主義も宗教の一つとして数えられるのではなかろうか。
前回の投稿の続きです。
その意味で、マルクス主義も宗教の一つとして数えられるのではなかろうか。
前回の投稿の続きです。
何故人は宗教にはまるのか?ボクには正直分からない。ボクの場合、宗教に出会う前にデカルトに会い、その懐疑的思考に納得してしまったからだ。つまり哲学的思考を徐々に身に付けたのだ。だからであろうかいままで宗教にはまったことはない。ただしかし、宗教の思想には、はまって探求はしてきた。仏教、キリスト教、イスラームと一通りみてきた。その感想はここでは述べない。徐々に話していこうと思う。
思うに、人が悩んだ時、宗教は一服の清涼剤のような存在になればいいと思う。だから、本屋には、少なくとも新約聖書とか歎異抄などの古典を置いてもらいたいと思う。温故知新の精神である。大切なことは、宗教をやみくもに信仰することではなくて、宗教の思想を鏡として、自分のこころを反省することである。反省することから新しい世界が見えてくるんじゃないだろうか。
ボクはいま反省ということばを使ったが、対峙という方があっている。
思うに、人が悩んだ時、宗教は一服の清涼剤のような存在になればいいと思う。だから、本屋には、少なくとも新約聖書とか歎異抄などの古典を置いてもらいたいと思う。温故知新の精神である。大切なことは、宗教をやみくもに信仰することではなくて、宗教の思想を鏡として、自分のこころを反省することである。反省することから新しい世界が見えてくるんじゃないだろうか。
ボクはいま反省ということばを使ったが、対峙という方があっている。