てんざえもんの哀しき告白 -28ページ目
食事で胃を満たし、食後コーヒーをすすりながら論語のページをめくる。この午後のひと時、お腹もこころも満たされる。幸せな時間だね。


儒教を学習していると、以前探求していた仏教、特に大乗仏教などは、まったく馬鹿らしく感じるようになった。釈尊を何か超人的な存在とする態度があまりにもアホらしいく感じられる。確かに般若心経などは哲学的だが法華経などまともに相手など出来なくなった。儒教の聖人はあくまでも人間である、釈尊より前にうまれた孔子でさえ人間である。これを思うと大乗仏教がいかにインチキかよくわかる。
儒教は人の学問である。




ボクは、アタマがよくない。学んでも応用が効かないのである。ある事柄を理解するのに時間がかかるのだ。論語もまたしかり。これは自虐的ではなくほんとのことだ。
ボクはこの世界で、損をする側の人間だ。ただひたすら真理の探求に勤しんでいる。確かにアタマは悪いが、真面目だと思う。
最近、論語を読んで少しわかったことがある。それは、論語から、福祉国家を演繹することはちょっと出来ないということである。孟子は社会的弱者にひかりを当てている箇所があるので、孟子から福祉国家の概念を演繹することは可能である。
下層社会に生きる人びとにひかりを当てる社会も国家の体として重要である。何故下層社会が存在するのか想像することは世の中の仕組みを考える上でも重要である。
居心地のいい社会に成るには、国民の格差の縮小が第一である。
儒教はただ単に道徳を教授する学問ではない。政治的に、国家に生きる人びとがいかに居心地良く生活出来るかを探求する学問でもある。



論語は難しい。
わかりにくい漢字が多くて、意味も分からない。現代語訳でさえ意味が理解出来ない部分がある。
その難解さがボクを論語読みの論語知らずにしている。
やっぱりバカでは、孔子一門の思想を理解することは無理なのであろうか。

孟子もいろいろ読んでみたが、論語より理解しやすいと思った。孟子の方は、論語より具体的だ。まだ断定は出来ないが、孟子の思想からは福祉国家を演繹することは可能だと思う。

しかし、論語という一級の古典を読んで、論語読みの論語知らずには終わらさせたくない。

論語は人を選ぶのであろうか。論語的人格者だけが理解出来る書物なのであろうか。