てんざえもんの哀しき告白 -27ページ目
食べたいカレーがある。京王線新宿駅とJR新宿駅改札口の途中にあるC&Cカレーである。立ち食いのカレーショップなのだが、うまい!学生のころよく食べた。エッグカレーをよく注文していた。生かゆでを聞かれると生を注文していた。生玉子をカレーにのせたものである。
また、学食でよく食べた370円のカツカレーも懐かしい。午後の講義の後の食事が何かリッチな気分にさせた。しかし、カレーはいつもうまい!
特に、カツカレーが食べたい。


最近、儒家とともに外すことが出来ない墨子の思想を探求している。その感想は、一口でいってラブ&ピースである。イエスより以前にそれを唱えた人がいたのである。確かに儒教より過激な思想だと思う。自分にはとても実践など出来ない思想だ。岩波の‘世界'と相通ずる価値観だ。
墨子に関する本も少ない。
ただ言えることは、人を分け隔てなく愛することなどボクには出来ないということ。ボクには墨子は、マルクス同様理想だけで人間分析が足りないと感じた。それと思ったことは、貝原益軒の博愛の思想は孟子より墨子に近いと思った。
今は、儒教からちょっと寄り道して墨子をまだ探求したいと思う。

左傾の人たちには墨子はオススメ。




しかし、哲学というものは閑でないと出来ない。
哲学とは、世界観の解釈である。事象の総合からの演繹である。だから新たな事実は重要である。光より早い物質の存在は今後の宇宙観をどう変えるのか興味深い。哲学と宇宙観は切り離せない。

最近、聖書における、信徒へ手紙に興味がある。新約聖書の中での位置に興味がある。自分がいきなりイエスという神をその手紙によって受容出来るのか思考実験してみたくなった。イエスは神の体現なのか?それともただの神話か?
孔子も孟子も人間である。神でないが人の道を説いてきた。ひとは、人の道を神の権威なしでも実践することが出来るのか興味深いところである。



江戸時代の人たちは、論語をどのように読んでいたのだろうか。今は、現代語訳がついているので、学者によって解釈が違うが、意味はわかるが、江戸時代の人たちで、独力で読みこなすのは大変だったに違いない。
二十代の二宮尊徳もまたしかり。

以前、ボクは仏書を読んでこころをある意味癒やしていたが、儒書を読むようになって以前より公共の徳を考えるようになった。それは政治思想に直結する。それに儒書は個人の道徳感の修養にもなって、仏で、上から目線の戒より、人間的だ。
仏教の観点も人には重要なときがあるが、政治的、公共的な観点の場合は儒の道が重要だと思う。

論語は、ボクの必読書になっている。
思うに、仏教書より儒教の経典の方が優れているようだ。



仏教者に質問します。

あなたのいう仏法とは何か?


儒では、中庸を説くが、なかなか実践は難しい。だから、ボクは、怒りの感情はなるだけ、不動明王のごとく不正・邪悪に対して持つようにしている。
不動明王の仏像だけはほしい。自らの思想を表明したいから。