てんざえもんの哀しき告白 -20ページ目
きょうは、七夕である。昼頃、家内とちょっとしたことで険悪なムードになってしまった。どちらかが悪いとかいう問題ではなく、それは価値観の違いによる険悪化というものだ。私も家内も不愉快になり、家内は、貝のように、部屋に閉じこもって、お互い口を聞かない状態が続いている。外は雨雲がかかり、暗い。おれも気分はグロッキーだ。どこかに逃げたくなる。家内の部屋には、テレビやパソコンがあり、要するに、部屋に閉じこもっても、逃げ場があるのだ。おれにとって本は、慰めになるはずであるが、気分がグロッキーたと本も読みたくなくなる。あ~この雰囲気、イヤだ!なんとか抜け出したい。抜け出すにはカネがいるがカネもない。部屋は、湿度が高く居心地も良くない。とにかく、この雰囲気から脱したい。



5月に白内障の手術をしてまだ新たにメガネを作ることが出来ないおれは、外出の際はタクシーを使うが、きのう、病院帰りに利用したタクシーの運転手さんは、おれに好印象を与えた。まず、受け答えが、はっきりしていたこと。道順を言うと、ありがとうございますと丁寧さが見られた。そして、ビュンビュン飛ばす。メーターを気にする利用者のおれにしてみれば、飛ばしてくれる運転手さんは、料金的にも有り難い。そして、特にコカ・コーラ社が感謝しなくてはならないことだが、タクシー内の中央のエアコンの吹き出し口の上に据え付けられたカップホルダーの中にジョージアのエメラルドマウンテンブレンドのコーヒー缶が置いてあって、それがやたら目立って印象深かった。思うに、働き者で、正直な運転手さんとの印象をおれに与えた。仕事中にも、コーヒーを飲んで、一服を忘れない、つまりタクシーの運転手という仕事にプライドを持っている御仁と感じたのである。タクシーの室内も雑な雰囲気もなく、コーヒー缶が目立つ所に置かれた風景が、ある意味、運転手さんの仕事熱心さをおれに感じさせたのである。運転手さんだって人間だ!のども渇く。そののどが渇
いた時に、甘い缶コーヒーでひと息ついているのだろうと、この記事を書く前に考えていたら、おれもジョージアのエメマンがやたら飲みたくなり、冷蔵庫に冷やして置いたエメマンをおれもいま飲んだところなのだ。おれは持病の都合上、若干の水分制限があるのだが、そこは人間。のどが渇いたら水分を補給したくなるのが、自然であり、人情だ。病院の先生には、小言を言われるのを覚悟して、そして、それにもまして、感じのいい、非常に人間的な運転手さんに出会えことにある意味その好印象をここに記しておきたかったのである。しかし、甘い缶コーヒーは、ひと息つかせるね。



かけ(そば)なんぞぁー喰ってられるかい!かけなんぞ喰うのは、貧乏人たらしっぽくてやだね!おっ!えび天、一本のっけてくんな!
実は、えび天は二本のほうが断然うまいのだが、そこは貧乏人、二本で二百円弱はちと痛いので、一本でやせ我慢。…これが、おれの思う「いき」っていうもん。

文学との接点は、どこに転がっているか解らない。今、藤村の詩集にはまっているが、もとは小林一茶の句に端を発する。一茶の句に「さらしなのそばの主や小夜砧」というのがあって、この「小夜(さよ)」の意味を、新潮現代国語辞典で調べていたら、用例として藤村の若菜集からの引用が載っていた。その引用された箇所はまだ未明だが、それは、「小夜には小夜のしらべあり」、という文言で、おれは、その用例の文言で藤村に興味を持ったのである。

今回は、そばにちなんだ話、2話でした。


ぼくは、感情の起伏が激しいのかもしれない。きのうは、とことん落ち込んだ。多分日頃のストレスがピークに達したのだろう。孟子を思い、論語を思い、また考え、分からない文字を新たに入手した辞典で調べているうちに、気分が回復してきたみたいだ。儒教のメッセージとして、とにかく人事を尽くし、行き当たるところまで行け!というアドバイスがある。とにかく人生、進むしかないのだ。空腹は、苦しみであるが、空腹感は、生きる原動力になる。儒教のメッセージは、ぼくの生きる糧だ。