この日本という国は、努力すれば報われるということはない。確かに努力は必要だが、善人悪人問わず、才覚さえあれば金持ちになれる社会である。法にしても才覚のあるやつに有利に出来ている。才能のないやつは、運勢でもよくない限り貧乏のままである。何故そんなことが言えるのか?おれ自身が才能もなく従って貧乏だからだ。おれはあのバブルの時も給料が12万円以下のワーキングプアであった。母親が毎日、昼食代に千円くれていたからおれは働いていられた。当時営業職で帰りの時間も客次第で夜遅く11時なんてあたりまえだった。だから、おれは、努力しても報われないことを身にしみて知っている。営業は、実績だけがものをいう。途中の努力など無関係なのである。努力が足りないなどの批評は一切受けつけない!結果、営業は不向きとの結論に達し、さらなる向上心により、大学の哲学の講師になろうとおれは学術生活に入った。その大学講師の道も未だ叶わずだが。しかし、そんなおれを肯定してくれる本に出会った。それが孟子である。いままで何言われようが、にこやかに馬鹿になっていたが、孟子を知り論語を知り、儒教を知り、その人間性肯定から自尊
の精神を学び取ったのである。自分の今してる学術生活もそしてそこから得た確信も自信または勇気を持つことが出来た。邪には毅然と立ち向かう心が定まったのだ!おれはこれからも前進あるのみ!
最後に、創価学会はインチキであり、営利団体であり、題目唱えようが、功徳などない!創価信者人に非ず!
繰り返しになるが、おれが使う右翼とサヨクの定義を挙げておくと…。右翼とは、利益の独占を主張する輩を指し、サヨクとは、利益を分け合うことを主張出来るひとを指す。おれの中では、サヨクは、マルクス主義ではないのである。当然、唯物論など無関係である。皇室に関しても日本国の伝統という観点で捉えている。極右の石原慎太郎のごときは、国益に反する国賊である。近現代の歴史を見ても、右翼が政権を執ると亡国の道を辿ることは明らかである。サヨク的政権は、福祉国家への礎を築くことに繋がる。しかし、おれの主張するサヨクの政党は既成政党にはない。社民も共産も不十分であり、国民の支持を得ることは無理である。
前回おれは、福沢諭吉を先生と呼んでいたが、別に福沢を師匠として仰いでいるわけではない。福沢は、おれにとって傾聴に値する儒学者であり、おれに勇気を与える作家であり、考えるヒントまたは経世をアドバイスしてくれるおやじのような存分である。関係ないがおれの実際のおやじはおれにとり反面教師であるが…。話を福沢に戻すと、おれは正直諭吉の外交論を読むと戸惑いを隠せない。明治17年頃の論調は、戦争を煽るような主張ばかりである。四十代後半の諭吉の真意をおれはまだ理解出来ない。ただおれと諭吉の違いは、諭吉が競争社会大々バンザイなのに対し、おれは競争主義に全面的に賛成出来ない立場である。社会主義ではないが社会主義的立場である。つまりおれの思想の背景には、なぜ人が まして同じ国に住む人間同士がなぜ生存競争しなくちゃならないのか理解に苦しむのである。競争と切磋琢磨は意味は違う。切磋琢磨はいいが、人間の生存競争にはおれは大反対である。
最近、福沢諭吉にはまっている。福沢への探求は、日本思想の探求上必要不可欠との認識を持っている。さて、学問のすすめにおける諭吉は、まさに傲慢であり橋下徹の冷酷非情な態度に通ずるものを感じるが、文明論之概略における諭吉には、儒学批判が随所に見られるが、諭吉の根底には、ちゃんと儒学の神髄が生きている記述も確認出来るのである。特に諭吉の晩年頃の記事のスタイルは儒者そのものであり、おれからすれば、諭吉も儒学者のひとりである。諭吉は、封建的儒学の批判者であることは確かであり、おれも全く同じであり、諭吉もおれも革新的儒学者と云うても可なり。いまのおれには福沢は、貝原益軒、二宮尊徳に並ぶ先生という存在である。諭吉の独立自尊の主義には完全には支持出来ないが、特に宗教の批判には諭吉と同意見である。諭吉の表現を使えば、人非人つまり人にして人に非ずということである。宗教への信仰は、人間の放棄を意味する。ひとが世の中を安穏に過ごしたいと宗教の信仰に依存して宗教の教義に自分を任せるなどという行為はまさに人間性の放棄であり家畜化である。ひととして生まれたからには、自分の持てる能力を思う存分使うべき
だ!最初 から宗教に依存していては薬物中毒患者同様である。自ら考えて行動する。ひととして生まれたものの義務である。特に新興宗教の信仰にはまっている人間は、人間のクズである。
だ!最初 から宗教に依存していては薬物中毒患者同様である。自ら考えて行動する。ひととして生まれたものの義務である。特に新興宗教の信仰にはまっている人間は、人間のクズである。
最近、福沢諭吉に関心がある。岩波文庫で、福沢の文明論之概略を読んでからだ。最初この本を読んだ感想は、なに調子こいでんねん!このおっさん!というものであった。思想的には右翼である。彼の儒学批判も最初は面食らったが、なにせ封建的儒学の中にあった福沢には当然の批判だとあとで納得した。しかし、福沢の著作は洞察に富み現代に生きるおれにもその洞察力には一目置いている。最初は、維新の波にのった勝ち組のおっさんの能書きかと思ったが、ある意味、現代の保守派に悪用されないために福沢の著作を時代的文脈でちゃんと捉えなければならないと考えている。サヨクの思想を再構築するためにも福沢諭吉の思想を探求しなければならない。いまのおれには福沢諭吉はダイナミックである。