この前、日本で学んだ観術セミナーに出て感じたことを書いておこう。

 

今日のはあくまでもてんつくマンから軌保博光への書き込みであって、他の人への書き込みではない。

 

なので、特に神様が大好きな人は読まない方がいい。

 

腹が立ったり、気分が悪くなるかもしれない。

 

軌保君よ、おいらてんつくマンは無料の1DAYセミナー、そして、二日間の観術認識セミナーに出てきたんよ。

 

おいらが大事にしていることは今、この世にあるすべてのものは正しくて間違い。

 

なので、観術に対しても同じで、正しくて間違っていると思って三日間話を聞いててん。

 

観術の教えでは、まず、この世の始まりは神が創造したものではないってことになるねん。

 

じゃぁこの宇宙は?地球は?人は?どうやって出来たん?って思うやん。

 

神が想像したんとちゃうの?

 

どうやって創られていったか?

 

それは存在として存在してない、あえて言葉にするならば『サムシンググレート』から始まっているとしてる。

 

そのサムシンググレート、縮めて『SG』とは存在ではなく「動き」。

 

その動きというSGはいろんなものをどんどん吸って吸ってこれ以上、吸えないってなると一気に吐き出す。

 

まるでビックバーンのように。

 

ビックバーンによって宇宙が生まれた。

 

そのあともずっと繰り返しそれを繰り返している。

 

そのSGはどんどん集まって濃くなると波動になり、やがて粒子となってゆく。

 

今、物理の世界では人間が観測できている一番小さな存在は素粒子と言われている。

 

つまり、その素粒子の元がSG。

 

要するに素粒子がどんどん集まってくると原子となり、細胞となり、物質に変化してゆく。

 

それは水蒸気が集まると雲になり、そして雨となるように。

 

そして、さらにSGが濃くなるとそれはわかめになったり、植物になったり、魚になったり、両生類になって動物となる。

 

さらに人間となり今、地球上で一番濃い部分が人間の脳になってるんやって。

 

だから人間ってめっちゃ凄いねん。

 

観術が伝えているのはどんな生き物も物もすべてSGから始まっている。

 

つまり、みんな同じ一つから始まっていて濃さによって違うように見えているだけ。

 

あなたは私であり、動物も植物も虫も魚も鳥も私、さらに木や花や石もガラスも石油も水も机も帽子も服も野菜も全部、もとはSGという一つ。

 

これは科学的にはひも理論っていう言い方をしていて「きっとそうだろう」って発表している。

 

今の最先端の科学はお釈迦様が言っていることを実証しているって感じ。

 

在ると思っているものは実は無い。

 

ということは軌保君よ、食べる時には命をいただきますではなく、また会えたねの方が正しいのかもれしれない。

 

離れていた自分と自分が再会するっていう感じ。

 

分離してたものが統合される感じ。

 

だから結果、神様はいないってことになる。

 

軌保君もてんつくマンも神様っていう言葉は書き下ろしの時にも良く使ってきたけど、これは人間の都合で作り上げたんかもしれんな。

 

つまり神がいてそれを人が神と呼んだのではなくて

 

人が神を想像して神というものがいるんじゃないか?から神はいるらしい。いや神はいる!そうだ神はいるぞ!に変化していったんやと思うねん、神様が好きやった軌保君はどう思う?

 

人間の概念で考えると、どんな命もお母さんがいて生み落とすものになる。

 

つまり、こうやって命があるってことは誰かが産み落としたり想像したものがあるっていう発想になる。

 

そうやって神という概念が生まれたんじゃないやろうか?

 

人間にとって神という存在があると考えた方が安心するし、時には神の責任にも出来るし、「そんなんやったらバチが当たるで!」って子どもや人をコントロール出来る。

 

小さい時に親がしつけの時に嘘をいっぱいつくやろ。

 

夜に笛吹いたら蛇が出てくるで!みみずにおしっこかけたらちんちんはれるで。食べ物を残したらもったいないおばけが出るで。

 

夜に爪切ったら親の死に目に会えないで。

 

全部、非常に確率の低く正しくもあり、ほとんど間違いであり嘘やろ。

 

そうやって神は人間が想像してあたかもいるかのように伝えてきたんやと思うねん。

 

だってそれが人間にとって都合が良かった。

 

観術では人間の概念で考えている限り問題は解決出来ないと言う。

 

だから、観点を人間として自分目線ではなくて、宇宙の外からの視点を持てるようになろうというものやってん。

 

僕はずっと人間は宇宙の中で生きるものだと思ってたから宇宙の外があることを聞いた時になんか知らんけどめっちゃワクワクした。

 

そして、イメージングで宇宙の外から宇宙や地球を観た時に心が本当に落ち着いた。

 

これはありやなって思った。普段の生活の中で使えるって思ってん。

 

人間としての概念を捨てるといかに自分が洗脳されているかに気づく。

 

だから、軌保君よ、人間が創った常識や倫理やモラルは疑った方がいい。

 

自分が疑わずにやっていることこそ疑った方がいい。

 

例えば年が明けたら神社に参拝に行ってお布施するとか、お墓まいりに行くとか。

 

こういうのも疑った方がいい。

 

二つ神社に行ったら神様同士が喧嘩するってことも疑った方がいい。

 

そして、軌保君よ、今まで何十年もやってきたけどこれって本当に必要なのかね?

 

このお金って本当に人がしあわせになる為に使われているのかの?

 

坊さんはレガシーや外車に乗ってブイブイいわしてないか?

 

キャバクラやクラブで夜の街にお金をばらまいてないか?

 

お墓を作るのに、仏壇を作るのに数十万、数百万、時には数千万かける意味があるのか?

 

肉体を離れた時に戒名をつけてもらうのに数十万、数百万も払う必要があるのか?

 

そもそも戒名なんて必要あるのか?

 

これって誰が望んでいるの?

 

これによって誰がしあわせになるの?

 

亡くなった本人?家族?坊さん?教祖?それに纏わる仕事をしている人たち?

 

軌保君よ、一つ一つ疑ってみた方がいいぞ。

 

死んだら葬式なんているか?

 

大好きな高井の母ちゃんの遺言にはこう書かれていたやろ。

 

葬式で集まったお金でお返しをするのではなく、そのお金でカンボジアに学校を一つ作ってほしい。

 

葬式で集まったお金をお坊さんに渡すより、こうやってもっと世の中がハッピーになる使い方があるんじゃないか?

 

例えば誰かが亡くなって、葬式をしたり、お墓を作ったりするお金が300万円かかるとしよう。

 

そのお金を人が死ぬたびにお金で困っている人を助けたらどうやろうか?

 

軌保君よ、この長年続いている制度をもう一度、根本的に疑ってみよう。

 

人はどこかの凄いと言われている人が言ったことを「そうかもしれない」と思い、途中から「きっとそうだろう」に変り、「間違いないそうだ!」となり、最後には「そうしなければいけない」。挙句の果てには「そうしなければバチが当たる」「人間としておかしいに」なってしまってるんじゃないかな?

 

お墓まいりなんて、「行かなければ先祖供養が足りない」って言葉で商売している人にコントロールされているだけかもしれんぞ?

 

最近は体が悪くてお墓に行けない人のために代行でお墓まいりに行く職業があるらしいわ。

 

例えばお墓にご先祖さんの魂や意識があるとしてやで、体調が悪い子孫が人にお金を払ってお墓に来てくれることが嬉しいと思う?自分が先祖やったらそんなお金があるんやったら苦しんでいる人の為にお金を使いって言わないか?

 

軌保君よ、正月のお寺まいりや神社参りもこれが昔の風習やっていうけど、これってほんまに大事やと思うか?

 

そんなところにお金をお布施するより、お金を苦しい人の為に使った方がこの世にしあわせが増えるって思わないか?

 

世界のいたるところで誰かの命を救う為に頑張ってるNPOをサポートした方が世の中はしあわせになるんじゃないかな。

 

これを書いてていかに自分も洗脳されていたかに気づいた。

 

だって今日までにどれだけのお金を神社やお寺に寄付したやろう?

 

小銭よりお札って賽銭箱に入れていた。

 

神様に愛されたくて。

 

そのお金を誰かのしあわせの為に使ってたらもっとハッピーを増やせてたはずやないか?

 

てんつくマンはこれからお墓まいりや新年の参拝をするよりもこの命をつないでくれたご先祖さんが喜ぶ生き方をする。

 

これが過去の人の生き方を真似した生き方ではなく、てんつくマンの生き方や。

 

手を合わすなら神社やお寺に行くよりも、その場所で今日も命を育んでくれている太陽や雨に手を合わす。

 

今、気づいたわ。

 

今まで参拝に行くことは正しい、新年は参拝しなければいけないと思って神社に参拝してたわ。

 

お墓まいりもそう信じ込まされてお墓に手をあわせに行ってたわ。

 

例えばご飯を食べる前の「いただきます」や「ごちそうさま」

 

ありがとうという感謝の気持ちさへも本気で一度、疑ってみる。

 

なにかをもらったらありがとう。

 

なにかをしてもらったらありがとう。

 

ここを疑ってありがとうよりもさらに素敵なことはないかな?を想像するのもいいと思う。

 

この前、元スタッフの子供の4歳の男の子にご飯を食べにいって「ありがとう」じゃなく「ラブ」って言うてみって教えたら

 

料理が出てきたらウエイトレスさんに、その子が「ラブ」って言うとウエイトレスさんが笑った。

 

あきらかに「ありがとう」より「ラブ」の方が店員さんは笑顔になった。

 

ということは「ラブ」の方が凄かったかも。

 

ありがとうの変りに

 

あなたは天使のようです。

 

あなたは素敵です。

 

しあわせ!

 

でもいいのかもしれない。

 

この前も言うてたんやけど、旦那が奥さんとのセックスを拒む、そしてセックスレスになる。

 

奥さんは本能であるセックスを求めて他の人とセックスをすると旦那はそれを「浮気」と呼んで奥さんを非難する。

 

これって旦那さんがどれだけおかしいことを言っているか気付いてる?

 

これは逆もしかり。奥さんがセックスを拒み続ける。そして、旦那が違う人とセックスをすると「浮気」と呼び、相手の女の人や旦那さんを訴える。

 

意味が分からない。

 

例えばお腹がすいたよって訴える子供に親がご飯を何日も作らず、子供がお腹が空きすぎて我慢出来ず、隣の家でご飯を食べさせてもらった子供を「あなたは私の子供なんだから他でご飯を食べるな」って親が怒ってたらおかしいやろ。

 

理不尽極まりないやろ。

 

あきらかにご飯を作らない親がおかしいやん。

 

これと一緒やで。

 

でも、洗脳されている人は浮気した人が悪いと責め立てる。

 

おかしいことにおかしいと感じない人がおかしいんじゃないか?

 

もしもこの世にやったらあかんことがあるとするならば、それは相手の自由を奪うことやと思うねん。

 

だから、例え自分の血の繋がった子供であろうと旦那さんや奥さんであっても自由を奪うべきではないって思うねん。

 

なんで人を殺したらあかんか?それはやっぱり生きるという自由を奪ってしまうからやねん。

 

会社もそう、結婚もそう、江戸時代では高知に生まれた人間が自由に高知から出たら脱藩したって言うて裁かれた。

 

海の向こうになにがあるんだろう?ってワクワクして船で渡ろうとしたら裁かれる。

 

おかしすぎるやん。

 

下士(身分の低い武士)に生まれたら、上士(身分の高い武士)が前から歩いてきたら真ん中の道をあけなあかんっておかしいやん。

 

お互いがゆずりあったらええやん。

 

そして、お互いが指でハートマークを作って「ラブ」って言うた方がしあわせになるやん。

 

部落の地域に生まれたら差別を受けるっておかしいやん。

 

でもさその「なんやねんそれ頭おかしいやないかそのルール」っていうルールが何百年も続いてたんやで。

 

それをほとんどの人が疑わず従って苦しんでいたんやで。

 

だから、坂本龍馬たちが生まれたんよ。

 

それはおかしいぜよ!って。

 

人は自由じゃ。行きたいところに自由に行けるようにしよう。どこに生まれても差別を受けるのはおかしいって立ち上がったんや。

 

だから、そのクソのようなルールが変わって今、こうやって好き勝手に海外に行けるわけやろ。

 

それがたった160年、170年前やで。

 

明治維新が起こってから、日本人は自由になった。

 

でも、西洋の考え方をこれが正しいと勘違いして苦しい制度をいっぱい作ってそのつけが今、生きている人に回ってきている。

 

これから僕はゴルファーとして世界中を飛び回りながらいろんな価値観を学んでゆく。

 

そして、ゴルフのステージが終わったら、世界のルールを変える立場のステージに立ちたいと今、強く思った。

 

龍馬さんたちがやったように、もっと人が輝けるルールを作っていきたい。

 

動物たちや植物たちも喜ぶルールってなんやろう?

 

なんて自分に問いかけながら今日を終わろう。

 

軌保君よ、何度も何度も常識や風習を疑って生きていくんやで。

 

そして、ラブを選びや。

 

おやすみ。