安楽死は許されるか?遭遇する困難や苦しみに負けないために・・・ | ベジタリアンの妊活・妊娠・出産・子育てブログ(旧天ちゃん生活)

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二人目を出産しました。現在は子育てと三人目の妊活しています。ヴィーガン・ベジタリアンで生活して本当に健康で問題なく子どもが生まれるのか心配な方に、大丈夫でしたよとお伝えしたい。安心して妊活に励んで下さい。

自殺したらどうなるのか(シルバーバーチ)→click




〔安楽死については、霊的真理を知る者の中でも、回復の見込みなしと診断された患者を苦痛から少しでも早く解放してあげるために安らかに死なせてあげることは許されるはずだという意見と、治療によって奇跡的に回復する例がある以上は無謀だという意見と賛否両論がある。シルバーバーチにその是非をただしてみた。〕

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――回復の見込みのない患者を安楽死させる権利を医者に与えるべきだという意見がありますが、どう思われますか。

シルバーバーチ(以下S):まず申し上げておきたいのは、全ての生命は大霊(創造主)からのものだということです。身体が衰えて霊がその身体から解放される時が到来すれば、自然の摂理に従って死を迎えます。

――それを医学的処置によって引き延ばすことは正しいことでしょうか。

S:間違ってはいません。

――たとえそれによって苦しみも長引かせることになってもでしょうか。

S:そうです。ただし、忘れてならないことが一つあります。死すべき時が来れば必ず死ぬということ、そして、地上界のいかなる手段をもってしても、その摂理だけは変えられないということです。

――安楽死させることでその患者の死後ないしは来世(次の地上生活)での苦難が大きくなるということはあるでしょうか。

S:そういうことはありません。霊的準備(死後の準備)の出来ていない魂にショックを与え、それが悪影響を及ぼすのです。その悪影響から脱する過程で、もしそういう死に方をしなかったら不要だったはずの調整がいろいろと生ずるのです。

――人間には寿命を長引かせる力は具わっているのでしょうか。

S:そういう目的で努力する――それは間違ってはいません。ですが、霊が地上界を去る時期が来れば、為す術はありません。

――と言うことは、生き長らえさせるための努力は結局はムダに終わるということでしょうか。

S:そういうことです。その証拠に、あなたのおっしゃる医学的処置によって寿命を幾らかでも引き延ばすことは出来ても、結局はみんな死んで行くではありませんか。

――でも、少しの間でも生き長らえます。

S:患者の身体が反応すればのことです。例えば酸素吸入という方法があります。ですが、霊界へ行く準備が整えば、医師にも施す手段はありません。

――死期が決まっていて、魂に準備が整った時に霊界へ行くことになっているのであれば、なぜ人間の寿命が少しずつ延びているのでしょうか。

S:地上人類も進化しているからです。物的な要素が霊的なものを決定づけるのではありません。霊的な要素が物的なものを決定づけているのです。




星





お月様




自分と家族の病気の苦しみに負けないために・・・




人間の内部にはいかなる病気でも自らの力で治す治療力と、いかなる困難をも克服する霊力をそなえているのですが、あなた方人間はまだそれを実感しておりません。いざという窮地において引き出せる霊力の貯蔵庫を持っているのです。


霊性というものは苦悶と病苦と悲哀の体験を通して初めて覚醒するものです。かくして自我に目覚めた魂は他人の苦しみに心を配る、大きな魂へと成長するのです。


病に苦しむ人を見て気の毒に思い胸に同情心が湧いてくるのは無理もないことであり、私もそれを咎めるつもりは毛頭ありません。しかし、その時のあなたは苦しみの一面のみを見ておられ、その人が苦しみの中で過ごす時間は、その代償として得られる喜びに較べれば実に些細(ささい)なものであるということまでは理解が及びません。



もしもその霊にとって、次の発達段階にそなえる上での浄化の過程として、その肉体的苦痛が不可欠の要素である場合には、治療家を通していかなる治癒エネルギーが働きかけても、絶対に治りません。苦痛も大自然の過程の一つなのです。摂理の一部として組み込まれているのです。



私たちは肉体そのものよりも、その奥にある霊の方により大きな関心を向けていることを、よく理解していただかねばなりません。霊が正常であれば肉体も健康です。霊に異常があれば、つまり霊と精神と肉体との関係が一直線で結ばれていなければ、肉体も正常ではあり得ません。





どうか“不治の病”という観念はお持ちにならないでください。そういうものは存在しません。治らないのは、往々にしてその人の魂がまだそうした治療による苦しみの緩和、軽減、安堵(あんど)、ないしは完治を手にする資格を身につけていないからであり、そこに宿業(カルマ)の法則が働いているということです。こう申し上げるのは、あきらめの観念を吹聴(ふいちょう)するためではありません。たとえ目に見えなくても、何ごとにも摂理というものが働いていることを指摘したいからです。




病気は当の患者に、人生の目的と存在の意義を成就するためになさねばならぬことを啓示するための手段であったのです。


雨





くもり








虹

自分と家族の心身の障害の苦しみに負けないために・・・


困難・障害・ハンディキャップ――こうしたものは魂の試練なのです。それを克服したとき、魂はより強くなり、より純粋になり、より充実し、かくして進化が得られるのです。


地上へ生まれ出るときに授かる身体は、授かるべくして授かったものです。つまり前世の中身に照らして相応(ふさわ)しいものを携えて新たな地上生活を始めるのです。ですから、遺伝性の病気を持って生まれたからといって、それを不利と見るのは間違いです。当人の霊的進化にとって必要な人生を送らせるような身体を授かっているのです。




身体という外形だけで魂の価値を判断してはいけません。魂の進化と、それが地上生活で使用する身体の進化とを混同してはいけません。父親または母親、あるいは双方から受け継いだ遺伝的法則の結果として傷害をもって生まれてくることがあるのは事実ですが、それが魂の進化を阻害することはありません。





障害をもって生まれてくる子供には、その魂にそれなりの埋め合わせの原理が働いているものです。正常な身体を持って生まれた子供よりも優しさ・寛容心・他人への思いやり等の強い性格をしていることがあります。永遠の時を尺度とした、因果律の一環としての『埋め合わせの原理』というものがあり、それは逃れようにも逃れられません。




脳細胞に障害があるために引き起こされる混乱は地上次元だけの話であって、宿っている霊は、脳という器官に欠陥があるために自我を正常に表現できなくても、霊的な意味での自分の責任は自覚しているものです。



あじさい




クローバー


ーー脳に障害があるために霊的自我の欲求とは正反対の行動に出ることがあり得ますか。

S:あり得ます。精神病患者の場合がそうです。が、この場合は魂の進化を阻害することはありません。機能障害のために物質界での表現が阻害されているだけです。魂の進化と、その地上生活での表現とは別であることを考慮しないといけません。





表現の器官を失うことによって開発のチャンスを失うことにはなっても、本来の霊的資質を失うことはあり得ません。その分、つまり失われた開発のチャンスは、埋め合わせの原理によって、他の何らかの手段によって与えられることになるでしょう。




私たち霊からすれば、目が見えないというのは、あくまでも相対的な問題としてしか考えておりません。霊的な盲目という問題をどうお考えになりますか。地上人類の霊的覚醒を使命としている私たちの立場からすれば、無数にいる霊的に盲目の人の方をむしろ見下したくなります。霊的覚醒の段階まで到達している人にとっては、目が見えないということは、別に障害とはならないでしょう。ただ物が見えるというだけの視力よりも、はるかに素敵な視野を得ていることでしょう。




皆さんはこうした問題をとかく物的身体の観点からのみとらえて、永遠という概念を忘れがちです。といって、そのことを非難するつもりはありません。無理もないことだからです。たしかに、目が見えなければ春の華やかさと美しさは分かりません。が、そんなものは、霊の華やかさと輝きに較べれば、物の数ではありません。





精神的に異常のある場合は、精神が地上生活の目的である“発現”のチャンスが与えられなかったということであって、破壊されていたわけではありません。損傷を受けることはありますが、秘められている能力そのものは無傷のままです。発現のチャンスが奪われたということです。そうした人の場合は、知性が幼児の程度のままでこちらへ来ますので、その発育不足を補うための調整が少しずつ行われます。霊にかかわるものには永遠の傷というものはありません。一時的な状態であり、そのうち調整されます。





魂は辛い体験、試練、苦難のるつぼの中で真の自我に目覚め、純化され、強化されて、より大きな人生の目的と意義を理解する素地が培われるのです。



死ぬということは決して悲劇ではありません。むしろ今その地上で生きていることこそ悲劇といっても良いくらいです。死ぬということは、肉体という牢獄に閉じこめられていた霊が自由になることです。


ですから死は消滅ではありません。霊が別の世界へ解き放たれるための手段にすぎません。誕生が“地上生活へ入る”ための手段であれば、死は“地上生活から出る”ための手段ということができます。



それを理解すれば“死”を悲しまなくなります。死ぬことは悲劇ではないからです。あとに残された家族にとっては悲劇となることはあっても、死んだ本人にとっては、少しも悲しいことではありません。新しい世界への誕生なのです。




あなたが愛する人、そしてあなたを愛する人は、今もなお生き続けております。





本当に大事なもの――生命・愛・本当の自分、こうしたものはいつまでも存在し続けます。死は生命に対しても、愛に対しても、まったく無力なのです。






以上シルバーバーチは語るより抜粋→click



すべての人の天命が全うされますように。
あなたが幸せでありますように。



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