家族 | いつもこころに

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日々大切にしたいことを綴った日記です

昨日、母方の祖父が亡くなりました。


満年齢で93歳。


大往生でしょう。


とはいえ、残された家族にとっては何歳まで生きようとも、悲しみの深さには差はないでしょう。


早ければ早すぎる、かわいそう、もっとしてあげたいことがあったと、悲しみに加えて悔いが残りますし、長く生きれば生きるほど、思い出が増え、湧き出る感情も多いでしょう。


けれど、その感情も全ての人がそうなるわけでもないし、悲しむことを強要してはいけないことだと、複雑な親戚関係を見ているとつくづく感じます。



私にとっての祖父は、もちろん大切な愛すべきおじいちゃんであり、私が7歳の時に末っ子の叔父さんと横浜に引っ越してしまってから、直接会う機会は減ったとはいえ、何十年も年賀状のやりとりはしていましたし、何かの折に写真を送りあったりしていました。


祖父と私をつなぐものは、なにより「写真」です。


おそらく祖父は当時の生活レベルでは相当に高価だったであろうカメラにいち早く心を奪われ、手に入れ、私たちが遊びに行くと、写真を撮ってくれました。


私が幼い頃くらいまでは、母にもその写真好きの気があったのですが、母には短期間で熱中すると、一気に冷めてしまう傾向があるので、いつしか家族の写真も少なくなりました。


それが、隔世遺伝か偶然かはわかりませんが、私にも写真好きの傾向が出て、学生時代に友人に「パー子」と言われるほどに(声が高かったのと、友達の誕生日をよく覚えてるという特徴も含めて^^;)。


祖父にも写真を送ったりしていたことで伝わったのか、今から15年位前でしょうか。祖父がそれまでずっと大切にしてきたCanonの旧式の一眼レフとYASHICAの小型カメラを、わざわざ私に送ってくれたのです。


「もう自分は写真も撮れなくなってしまったので、一番大切にしてくれそうな恵ちゃんに譲る」と。


孫は横浜にも他にもいっぱいいるのに、わざわざそう信じてくれたことがありがたいような申し訳ないような気持ちでしたが、素直に祖父の気持ちに応えようと受け取り、お礼の手紙を書きました。



母は5人きょうだいでしたが、まだ子どものうちにに亡くなった叔父さんをのぞくと下から二番目で、いつから祖父母の夫婦関係がうまくいっていなかったかまでは聞いていませんが、末っ子の叔父さんが成人したら別れる約束をしていて、その通りに実行したと、まだ子どもの頃に聞きました。


なので、私が生まれたときにはとっくに離婚していて、おじいちゃんとおばあちゃんの苗字が違うことも、別々に住んでいることも、それぞれが相手の悪口を言うことも、全て当たり前のことでした。


ありがたかったのは、それでもどちらにも会えていたことでしょう。


おかげで私は、祖父母や母や伯父・伯母・叔父の事情とは別に、祖父のことも祖母のことも大切に想うことができました。


父方の祖父母は、7歳と8歳のときに続けて亡くなってしまったので、もう何十年もおじいちゃん、おばあちゃんと言えば、他人に戻ってしまった母方の祖父母だったわけですが、自分もこの歳になり、子どもがいても別れる友人夫婦もずいぶん増えると、よりリアルな大人の事情を聞くことが多いわけですが、つくづく家族というのは不思議なものだな、と思うのです。



もしかしたら、母方の祖父母は、その時代には珍しく離婚したことで、嫌々暮らし続けるよりもストレスが少なくて、長生きしたのかもしれません。


祖母はもう何年も前から老人性痴呆症で施設に入っており、肺炎を起こして寝たきりになってからは病院に入院していますが、91歳の今も健在です。


祖父の容態が急変したのは今年に入ってからですが、祖母も同時期に危ないと言われていたことがあり、どちらがどうなるか・・・と覚悟していた時期があったのですが、元気なときの性格が正反対だったことが、同じ寝たきりでも正反対に出て、呆けてしまった祖母は、最初はもちろん忘れられていくのは悲しかったけれども、性格的には幼く、穏やかになるので寂しいくらいにかわいらしいおばあちゃんになって、とても素直ですが、頭が賢く、神経質で頑固だった祖父は、体が不自由になっても頭ははっきりしている分、その気性の激しさで介護してくれた叔父や叔母に辛く当たることも多かったと聞いています。


私が3月に会いに行った時も、姿は絶句してしまうほど変わり果てていましたが、だからこそ、私が会いに来て嬉しいという気持ち以上に、その姿を私には見られたくなかったというプライドの方が勝っているような状態でした。



祖父母をはじめ、母にも姉兄にも長生きしてほしいと心から思いますが、そんな祖父母の姿を見ていると、寿命というものの業の深さを感じずにはいられません。


勝手な話ですが、自分の大切な人にはどんな姿になっても長生きしてほしいと望むくせに、自分はここまで長生きしなくてもいいと思ってしまうのです。


父方の祖父母、父を早くに亡くして以来、人が死ぬということには過敏な少女時代を過ごし、人一倍、命の大切さについては強い想いを持って生きてきましたが、いざ長生きをしている人たちを前にした時、健康でなければ最後の苦行にすら思える生に、人生の深さを感じます。


「健康第一」というのは最もな言葉ですね。


否応なしに、生きることと、生かされていることの意味を深く考えてしまいます。



なにはともあれ、祖父母の個人的な感情は別にして、この2人が気の迷いでも、仕方なくでも一緒になってくれなかったら、母が生まれていなかったわけで、私が生まれることもなかったのですから、2人にとっては否定したい過去でも、私はその出会いに感謝します。


同じことをまだ生まれる前の未来の子孫が感じるものなんですよ。ということを、理由合って子どもがいても別れてしまうご夫婦にも覚えていてほしい。


両親や祖父母を否定することは、自分を否定することになってしまう。


時に、他人だったら友達にもならなかっただろうと思うくらい、考え方の全く合わない家族と組み合わさることはよくあること。


うちだってそうです。


でも、家族だから大切だし、何があっても責任があると思っています。


許し合い、認め合い、助け合うこと。


本当に難しく、傍にいるからこそできないことだったりするけれど、感謝の気持ちを忘れずに。


どうしてもダメだったときは、自分の子どもであっても別の人間だという認識を持って、自分の感情や都合ではなく、家族との接点は持てるようにしてあげてください。



なんだか変な方向に話が向かってきましたが、祖父の死をきっかけに、自分自身考えさせられること、自分自身の変化に気づかされることが色々とありました。


そういう学びも含めて、祖父が与えてくれたことなんだと思います。


祖父が亡くなったことは悲しい。


けれど、祖父にも、看病してくれた叔父・叔母にも、お疲れ様でした。とも思うのです。


そして、まだ「死」がわからない幼い姪っ子の相手をしていると、悲しんで立ち止まってる暇はない。


冷たいと思う人もいるかもしれないけど、今ある生を思う存分、充実したものにしよう。と思ってしまうのです。


「生き方」に正解なんてどこにもない。


祖父が遺言で献体を望み、葬儀を望まなかったことは、生きてる者の勝手な解釈かもしれませんが、いつまでも悲しみ、喪に服すことは望んでいなかったからだと思うのです。


祖父への感謝と愛情は、いつまでも心の中に、失わずに持ち続ければ良いと思うのです。



おじいちゃん、どうもありがとう。


私たちは大丈夫だから、どうぞ安らかに。