目黒区内の金毘羅坂(こんぴらざか)
東京都目黒区下目黒3丁目に金毘羅坂(こんぴらざか)と呼ばれる坂がある。
「金毘羅坂」
酉の市では山の手一の賑わいを見せる目黒大鳥神社北側の目黒通りは、南西に向かって緩やかな上り坂になっている。
沿道南側にユニークな博物館の目黒寄生虫館が建っているこの坂には、金毘羅坂の名がある。
金毘羅とは、仏法の守護神の1つ金毘羅さまに他ならない。
今は辺りにそれらしき神社や寺は見当たらないが、かつて大鳥神社北西の丘上に金毘羅さまが鎮座していたので坂の名になった?
『江戸名所図会』には「金毘羅大権現社」として「同所二町ばかり西の方、通りを隔てゝあり。祭る所讃州象頭山金毘羅宮と同じ。同社を以つて御城南鎮護神と称し奉れり」と記されている。
大鳥神社から200mほど西にあって、祭神は讃岐の金毘羅大権現、現在の香川県の金毘羅宮と同じで江戸城南の守護神と称されたという訳だ。
同書には木々に囲まれた社殿を描いた「金毘羅社」の挿絵も載っている。
江戸時代には随分繁栄した神さまで、大鳥神社・目黒不動尊と並んで「目黒三社」の1つに数えられた。
ただ幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』を見ると、この金毘羅は、正徳年間(1711~16)開山の曹洞宗高幢寺(こうとうじ)の境内にあったとある。
同寺は、『江戸名所図会』の「金毘羅大権現社」の項には「別当は禅宗にして高幢寺といふ」とあるだけだ。
しかし実際は、高幢寺開基後に境内の一隅に金毘羅さんが勧請されたという『風土記稿』の記述通りだったのだろう。
寺の名より金毘羅の方が一般には通りがよく、高幢寺そのものも「金毘羅大権現」と呼ばれるようになったと見られる。
その高幢寺も明治初年に廃寺となって金毘羅もなくなり、坂名に名残をとどめるだけになった。
この金毘羅坂には現在その由来が書かれた道標があります。
下の写真4枚がその道標です。
この道標には下記のように書かれています。
「 坂の西側に金毘羅権現社(高幢寺)があったので、坂の名がついたといわれる。
金毘羅権現社は、江戸名所図絵の押絵にその壮観がしのばれるが、明治の初めに廃寺となった。
坂の東側には、明治四十年に目黒競馬場ができ、昭和八年に府中に移転するまで、この坂は競馬場にゆきかよう人々でにぎわった。
昭和五十八年三月 東京都 」
この金毘羅権現社(高幢寺)の最後の十五世住職が東川寺開創の牧玄道大和尚なので東川寺とは深い所縁があります。