東川寺と下目黒の元高幢寺 (3)
廃寺に追い込まれた高幢寺の最後の(十五世)住職・牧玄道師は、金毘羅大權現とその他の重要な高幢寺の什物と共に、高幢寺から遁れ、東京府東京市芝区白金台町弐丁目拾番地に隠棲することを余儀なくされます。
上記は元の住所の高幢寺住職牧玄道師の署名
その後、牧玄道師は明治6年より永平寺東京出張所に、明治18年より両本山(永平寺と総持寺)の宗門事務を統括していた曹洞宗務局(現在の曹洞宗宗務庁)に勤めることになります。
しばらく時を得て明治32年頃。
北海道石狩國上川郡東川村の信徒より、曹洞宗の寺院を設立したいとの願いが曹洞宗務局に届出されます。
高幢寺の什物を抱えていた牧玄道師がその願いに応え、北海道への移住を決意し、東川村に金毘羅大權現等の什物と共に来村し、曹洞宗寺院を設立することになります。
この書類では高幢寺をそのまま移転することになっていますが、実際は名称(山号、寺号)を変え、天真山 東川寺として再出発することになります。
東川寺に目黒の高幢寺の什物と共に金毘羅権大權現の額があるのは以上のような深い由縁があるのです。
東川寺と下目黒の元高幢寺 (2)
その前に、何故「金毘羅大權現」があった「高幢寺」が廃寺となったのかを明らかにする必要があります。
それは明治維新で江戸幕府が倒れ、明治新政府が誕生したことと深く関係しています。
明治新政府が慶応4年3月13日に発令した太政官布告「神佛分離令(しんぶつぶんりれい)」と、明治3年1月3日に出された詔書「大教宣布」により、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、仏教弾圧がなされたことによります。
そのため多くの寺院、仏像、経卷が破壊されました。
さらに明治4年1月5日の太政官(だじょうかん)布告で「寺社領上知令」が布告され寺社の境内以外の領地が政府に取り上げられ、一層寺院が困窮し、廃寺にせざるを得ない所もでてきたのです。
前述の通り「高幢寺」は曹洞宗の禅寺と云うよりも「金毘羅大權現」で有名であったため、神仏混交を禁止され、金毘羅大權現は神体とみなされ神社で祭るものとされたのです。
さらに金比羅大權現と書いた島津藩主の薩摩藩はこの廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が他の所より厳しく行われました。
以上のように明治政府が急激に国家神道を進めてゆく事により、残念ながら高幢寺もついに廃寺に追い込まれることになったのです。
余談ながら、明治政府の意図により江戸幕府と関係が深かった寺院僧侶の社会的影響力を弱めようと、明治5年4月25日の太政官布告第133号で、「僧侶の肉食、妻帶、蓄髪等、勝手たるべき事」と云うことが布告されました。
それまで禁止されていた僧侶が肉を食べること、妻をめとること、頭の髪の毛を伸ばすことが、平然と行われるようになってしまったのです。
しかし曹洞宗は蓄髪だけは許さず、「髪を剃り、また髪を剃る」という道元禅師の教えの通り、剃髪だけは守る事にしたのです。
又、僧堂では現在でも肉、魚等の生臭いものは許されず、野菜を中心とした精進料理を食しています。
さらに余談
古い禅寺に行くとその入り口に「不許葷酒入山門」と書いた立て札が有るところがあります。
これは「葷酒(くんしゅ)山門(さんもん)に入るを許さず」と読みます。
葷(くん)とはニラ、ニンニク、ネギ、など臭の強い食べ物のことです。
葷(くん)と酒を寺院の中に持ち込んでは行けないという意味です。
しかしこの「不許葷酒入山門」を「許さざれども葷酒山門に入る」とも読めるので、葷(くん)はいざ知らず、お酒だけは秘かに飲まれていたようです。