東川寺所蔵の絵馬(3)修正 (韓信・四面楚歌・虞美人草)
先日、「東川寺所蔵の絵馬(3)」で掲載の絵馬③は「韓信(かんしん)の股くぐり」の説話によるものでした。
「韓信の股くぐり」の説話とはおおよそ下記のような事です。
韓信(かんしん)とは、中国秦末から前漢初期にかけての武将です。
若い時の韓信はふしだらな生活をしていた。
そんな生活をしていたある日、韓信は町の乱暴者に「お前は背が高く、いつも剣を差しているが、本当は臆病者だろう。そうでなければその剣で俺を刺してみろ。それが出来ないのなら俺の股をくぐれ。」と韓信を侮辱し挑発した。
韓信は黙ってその乱暴者の股をくぐり、周囲の者は韓信を嘲け笑ったという。
その時笑われた韓信であったが、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得にもならない、それどころか逆に仇持ちになってしまうだけだ。」と冷静に判断していた。
このことから「韓信の股くぐり」として世に知られる話となったのです。
しかしこんな事件があった後、韓信は漢軍の劉邦(りゅうほう)に見込まれ、「楚漢(そかん)戦争」の最後、「垓下(がいか)の戦い」で活躍し、楚(そ)出身の韓信は「楚王」となって古里に凱旋することが出来たのです。
この「垓下(がいか)の戦い」で有名になった事が二つあります。
その一つは「四面楚歌(しめんそか)」
もう一つは「虞美人(ぐびじん)」
「垓下(がいか)の戦い」で楚軍の項羽(こうう)が死んだことにより漢軍の劉邦の勝利が決定し、「楚漢(そかん)戦争」が終結したのです。
この「垓下(がいか)の戦い」で韓信が活躍します。
漢軍の韓信が三十万の兵を率いて自ら先頭に立ち、項羽の楚軍と戦ったが、劣勢になり後方に下がった。
しかし、孔熙(こうき)と陳賀(ちんが)が楚軍を攻撃すると、楚軍は劣勢になり、さらに韓信がこれに乗じて再び楚軍を攻撃すると、楚軍は大敗したのです。
敗れた楚軍は防護の塁(るい)に籠(こも)り、漢軍は外壁からこれを幾重にも包囲した。
漢軍の劉邦は楚の出身である韓信と心理作戦を計画し、項羽を取り囲む外壁から項羽の故郷の楚の民謡を大勢の人々に唄ってもらうことにした。
夜、項羽は四方の漢の陣から故郷の楚の唄声が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間のなんと多いことか」と驚き嘆いたと云う。
「項王軍壁垓下。兵少食盡。漢軍及諸侯兵圍之數重。夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰、漢皆已得楚乎。是何楚人之多也。項王則夜起飮帳中。有美人、名虞、常幸從。駿馬、名騅、常騎之。」
「項王こうおうの軍ぐん、垓下がいかに壁へきす。兵へい少すくなく食しょく尽つく。漢軍かんぐん及および諸侯しょこうの兵へい之これを囲かこむこと数重すうちょう。夜よる、漢軍かんぐんの四面しめんに皆みな楚歌そかするを聞きき、項王こうおう乃すなわち大おおいに驚おどろきて曰いわく、漢かん、皆みな已すでに楚そを得えたるか。是これ何なんぞ楚人そひとの多おおきや、と。項王こうおう則すなわち夜よる起おきて帳中ちょうちゅうに飲いんす。美人びじん有あり、名なは虞ぐ、常つねに幸こうせられて従したがう。駿馬しゅんめ、名なは騅すい、常つねに之これに騎きす。」
この故事から「四面楚歌」と云う言葉が生まれたのです。
「四面楚歌」の意味は単に四方を敵に囲まれていると云う事だけでは無いのです。
「楚歌」は敵のことでは無く、自分の故郷の謡(うた)のことです。
また戦勢不利と悟った項羽は、別れの酒宴を設けた。
楚軍の項羽には虞(ぐ)と云う美人の愛妾がおり、また騅(すい)という愛馬がいた。
虞(ぐ)と騅(すい)との別れを惜しみ、項羽はその悲しみを詩に読んだ。
力拔山兮氣蓋世 力、山を抜き 気、世を蓋う
時不利兮騅不逝 時、利あらずして 騅逝かず
騅不逝兮可奈何 騅の逝かざるを 奈何にせん
虞兮虞兮奈若何 虞や虞や 若を奈何にせん
その後、虞は自殺してしまい、虞を葬った処に美しい花が咲き、その花を「虞美人草」と人は呼んだ。
「虞美人草」は「ヒナゲシ(雛芥子)・コクリコ」の花の別名。
この事から「虞美人」が世に流布することになったのです。
(司馬遷の「史記」の「韓信盧綰列伝」を参考)
東川寺所蔵の絵馬 (2) 訂正
「将軍徳川吉宗に献上の象と源助」のお話は事実ですが、この絵馬とは関係が無いようでした。
この絵馬は「大舜(だいしゅん)」の物語のようです。
この絵馬は「二十四孝(にじゅうしこう)の大舜」を描いたもののようです。
「二十四孝(にじゅうしこう)」とは、中国において後世の模範として、親孝行が特に優れた人物二十四人を取り上げた書物です。
「大舜(だいしゅん)」はその二十四人の一人であり、古代中国の伝説上の聖王です。
その名を単に「舜(しゅん)」と云ったり「大舜(だいしゅん)」、「堯舜(ぎょうしゅん)」、「虞舜(ぐしゅん)」と云ったりします。
その「大舜」の物語はおおよそ下記のような事です。
大舜はたいそう親孝行な人であった。父は頑固者で、母はひねくれ者、弟はふしだらな能無しであったが、大舜はひたすら親孝行を続けた。大舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、田を耕すのを助けた。その時の皇帝を堯(ぎょう)と言った。堯は大舜の親孝行に感心し、娘を娶らせ皇帝の座を大舜に譲った。
このような親孝行を奨励する意味で「象と大舜」の絵馬が描かれたものと思われます。
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