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2012/5/11


連休の某日、久しぶりに幼馴染の女友達Eに会いました。

Eとは幼稚園からですから優に40年を超えた付き合いになります。
彼女には高名な芸術家であった祖父と有名女優である叔母がおり、
父親もまた、一流企業の社長でした。
誰もがもうらやむ裕福な家庭のお嬢さんだったわけです。

もっとも、ダンディな色男だった父親は、仕事はもちろんやり手で
したが、夜の世界でもその筋の女性にもてまくり、家に帰ってくる
暇などないほどでした。

アクの強さをぷんぷんまき散らしながらなお旺盛な生命力を持て余し
てか、ぎらぎらと無頼に生きる父親を、潔癖なEは、不潔だと非難
して徹底的に嫌い、今に至るもそのわだかまりは氷解していません。

生涯一女優!独身を貫き、演技を極めることのみに集中して生きて
きた叔母も寄る年波には勝てず、Eを呼びつけては身の回りの世話を
させています。

Eの母親は、おっとりとしてのんびり屋でしたが、このところ認知症
の兆候が出てきたそうで、Eの庇護下で一人暮らしをしています。

E自身は、生まれ育った環境と叔母以上に恵まれた美貌から、女優や
モデルへのスカウトも1度や2度のことではありませんでした。
しかし極度の男嫌いで、ラブシーンを演じる可能性のある仕事など
身の毛もよだつと一切拒否し、あえて地味な仕事について目立たぬ
ように独身生活を送ってきました。

Eの祖父が亡くなった後、かつては一家全員が暮らした大きな屋敷に
は、父親がひとりで住んでいました。
しかし、父親も80歳も半ばを過ぎて、さすがに体にガタがきはじめて
いることや安全面も考慮して、セキュリティに定評のあるマンション
を購入して住まわせ、屋敷は手放すことにしたのです。

屋敷の売却手続きから父親の引っ越しの手配まで、Eは一手に引き受
けて奮闘しました。
前半生を過ごした屋敷でしたが、手放すことに何の未練も感じてい
ないEは、淡々と事務手続きをこなしていきました。

それが、屋敷の引き渡し日、庭にあった桜の木の枝が伐採されるの
を見たとたん、Eは不意に突き上げてくる感傷を抑えることができな
くなって号泣してしまい、しばらく嗚咽が止まらなくなってしまった
のだそうです。

桜の木を切り倒す音で幕が下りる、チェーホフの晩年の名作『桜の
園』のラストシーンを思い出したというのです。

「ああ、わたしのいとしい、なつかしい、美しい庭!…わたしの生活、
 わたしの青春、わたしの幸福、さようなら! …さようなら!」

桜の園の女主人ラネーフスカヤは、かつてEの叔母も演じたことが
あります。

「さようなら、わたしの家!さようなら、古い生活!」

娘のアーニャになりきって、Eはつぶやいたのでしょうか。
芸術一家であるEたちが暮らした家との別れは、どこまでも演劇的な
のでした。

しかし、残念ながらEの周囲には、「ようこそ、新しい生活!」と力
強く叫ぶトロフィーモフ役が存在しません。

それぞれバラバラに生活している、『三人姉妹』ならぬ“三老人”
を相手に、老老介護の辛気臭い現実が待っているのよ。
皺が目立つようになった顔を曇らせて、深いため息をつくEなのでした。