以下は上記ブログからの引用です。
(前略)
(前略)
⛩️
人の力ではどうにもならない事は
やはり
祈るしかない
ただ
〝願えば叶う〟という事ではない
〝神〟と言われる存在は
『個人』の
願いを聞き入れてはくれない
と言うか助けてもくれない
Σ( ´・ω・`) えっ!
〝秩序〟を保つ事です
これが大事なんです
皆が皆
お金が欲しい
御縁が欲しい
名声が欲しい
と我欲を願えばどうなるか
⛩️
そしてもう一つ
〝皆のための願い〟はどうなのか?
「世の中が平和でありますように」とかね
人が出来ることは
まず
人が努力しなければいけない
*画像はすべてお借りしました
「願い事」は
〝ある意味において〟
失礼に当たることがある
神の計らいに
『不満がある』
って事になるからね
(`・ω・´)
⛩️
(後略)
引用は、以上です。
なんか、季節外れですが太宰治さんの言葉を思い出しちゃいました
ことしは三鷹の町のところどころに立てられてある七夕の竹の飾りが、むしょうに眼にしみて仕方がなかった。それで、七夕とは一体、どういう意味のお祭りなのか更にくわしく知りたくさえなって来て、二つ三つの辞書をひいて調べてみた。けれども、どの辞書にも、「手工の巧みならん事を祈るお祭り」という事だけしか出ていなかった。これだけでは、私には不足なのだ。もう一つ、もっと大事な意味があったように、私は子供の頃から聞かされていた。この夜は、牽牛星 と織女星が、一年にいちどの逢 う瀬をたのしむ夜だった筈 ではないか。私は、子供の頃には、あの竹に色紙をつるしたお飾りも、牽牛織女のお二人に対してその夜のおよろこびを申し上げるしるしではなかろうかとさえ思っていたものである。牽牛織女のおめでたを、下界で慶祝するお祭りであろうと思っていたのだが、それが後になって、女の子が、お習字やお針が上手 になるようにお祈りする夜なので、あの竹のお飾りも、そのお願いのためのお供 えであるという事を聞かされて、変な気がした。女の子って、実に抜け目が無く、自分の事ばかり考えて、ちゃっかりしているものだと思った。織女さまのおよろこびに附け込んで、自分たちの願いをきいてもらおうと計画するなど、まことに実利的で、ずるいと思った。だいいち、それでは織女星に気の毒である。一年にいちどの逢う瀬をたのしもうとしている夜に、下界からわいわい陳情が殺到しては、せっかくの一夜も、めちゃ苦茶になってしまうだろうに。けれども、織女星も、その夜はご自分にも、よい事のある一夜なのだから、仕方なく下界の女の子たちの願いを聞きいれてやらざるを得ないだろう。女の子たちは、そんな織女星の弱味に附け込んで遠慮会釈 もなく、どしどし願いを申し出るのだ。ああ、女は、幼少にして既にこのように厚かましい。けれども、男の子は、そんな事はしない。織女が、少からずはにかんでいる夜に、慾張った願いなどするものではないと、ちゃんと礼節を心得ている。現に私などは、幼少の頃から、七夕の夜には空を見上げる事をさえ遠慮していた。そうして、どうか風雨のさわりもなく、たのしく一夜をお過しなさるようにと、小さい胸の中で念じていたものだ。恋人同志が一年にいちど相逢う姿を、遠目鏡などで眺めるのは、実に失礼な、また露骨な下品な態度だと思っていた。とても恥ずかしくて、望見出来るものではない。(後略)