僕は逃げているのかもしれない~「籠の鳥」にはならない~(別段、意味はない) | てんぱりまっくす~あるいは、スクナビコナ~のブログ

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一度ツイッターに浮気しましたが、やはりこちらのほうが落ち着くようです。

ただいま(/-\*)


僕の言葉


「現実と闘うため」と繰り出すが「実は逃げてる?」否定は出来ない


「現実を乗り越えたい」といきがるが「実は逃げてる?」否定は出来ない


「現実を誤魔化すため」か? そうかもね。それでもいいか。小休止。


おまけ


手首にも足の首にも首にまで

絡み付く縄何ともしがたい


仕方ない絡み付く縄そのままに

歩くしかない走るしかない







 



ドストエフスキーさんもまた(?)、我々が苦痛と闘うことはつまり、病人が痛みの余り寝返りを繰り返しうつことで、痛みをごまかすようなものである。
みたいなことをどこかで言っていた気がするが、あるいは、私の記憶違いかもしれない。

私の感じる生きにくさ、これは「コンドルは飛んで行く」や「およげ! たいやきくん」に通じているかもしれない。

まあ「明日に架ける橋」でも聴くとしよう。



「籠の鳥」籠の世話にはならぬコツ
籠よりデカイ体を持つこと

(別段、意味はない)