ラジオで財津さん秘話 | IN THE WIND

IN THE WIND

自分のための備忘録。音楽とスポーツ観戦、飲み食い、時々本と映画
Don't think twice, It's all right !

関西のラジオ局 FM COCOLO で月曜21時から放送されている J-POP LEGEND FORUM で、東芝EMIで数々の有名アーティストを担当し、ファンハウスの創設者でもある音楽プロデューサーの新田和長さんが3月のゲストとして出演している。

 

2回目の昨夜は、チューリップ時代の財津和夫さんをめぐるエピソードをたくさん話しておられたので、記録しておく。聞き手は田家秀樹さん。

 

Q)出会いは1971年だった

彼がスコッチのオープンリール、いいテープですよね。財津君のよき理解者だった(地元放送局の)KBCのキシカワさんが、レコード会社に聴かせるなら良い音で録音しようと、KBCのスタジオで録ってくれたテープ。そのテープを持ってきて、1曲しか入っていないんですけど、それが「魔法の黄色い靴」。聴いて感じるものがあって、やろうということになった。

 

Q)財津さんとはどんな関係

財津君からいろんなことを教わりました。僕もプロデューサーとして当時できる事は全部やったと思う。だけどプロデュースとは何かを、音楽とは何かをっていうことを彼からたくさん教わった。
 

(「夏色のおもいで」オンエア)

Q)「心の旅」に次ぐシングル。作詞は松本隆さん。チューリップにとって唯一の外部の作家だった。
財津君はテレビなんかでこのときの悔しさを忘れないって言ってますけれど、この一つ前が「心の旅」ですからね、あれが1位になって。よくチューリップは下積みの時代があったとか長かったとかいわるけども、すごく短いんですよね。第1枚めの「魔法の黄色い靴」から「心の旅」までたった10カ月なんですよ。だからヒット曲までは10カ月なんですよ。ただね、「心の旅」は、思い出したけども、発売が4月20日くらいなんですよ。5月鳴かず、6月鳴かず、7月鳴かず、何も起きなかったんですよ。10月ぐらいからなんとなく煙ってくるっていうかね、煙が立つ、ヒットの前兆ですよね。10月の末か11月に1位とった。すごい長かったんですね。

(「魔法の黄色い靴」オンエア)

Q)さきほどのオープンリールテープの話を
2人でそれを聴いて、吹っ飛んで。日本でこんな曲作る人がいるんだって。直すところ何にもないし。詞もね洋楽みたい、サウンドも洋楽みたいだけれど、詞もね、好きだ何だって言うヤワな歌じゃなくて、これは「おお、そうだよ」というところにフレンチホルン入れればそれだけでいいんじゃない、とぐらいな話だけして。それぐらいでいいんじゃないかなって。

 

Q)それで、契約しようと

本当は僕は契約しようといえる立場じゃない。ほとんど新入社員ですから。ただ、おかげさまでヒットがあったということと、当時の社風、現場が権限を任されていたんですね。持っていた時代というか。

Q)成功と誤算は?アイドル的な人気が高まっていった
そうなると、だいたい次もまたヒットしなきゃいけないというふうに思うんですよ。財津君もそうだったのかもしれないけど。これは僕の誤算、失敗ですよ。次、ヒットしなくていいんですよ。同じような曲作んなくていいんですよ、たぶん。なんか、まあ弾みもついてるし、流れもできてるし、「心の旅」でボーカルを姫野君にしたでしょ、それがあの詞には合ってたかもしれないけど、それが失敗だとは思わないけれど、でもあれは財津君には悔しいことのもう一つなんですね。自分が歌うつもりでいたら、当日新田から姫野って言われて、実に悔しい思いをしたとテレビで言ってましたから。

 その次は「銀の指輪」でまた姫野君でしょ。そうやっていくと、どんどんロックバンドからアイドル的なバンドに色がついていっちゃうわですね。実はね、そのことを財津君はすごく嫌がったと思うんですけど、僕も嫌がっていたんですよ。これはね、ぶっちゃけで言っちゃうと、僕は商売っぽくないんですよ。ミュージックなんですよ。財津もそうですよ。マネジメントだって、全員じゃないけど、中にはもっとコマーシャリズム、ミュージックよりもエンターテインメントって志向する人は当然いるわけ。アーティストが売れると、そういう人が力付いてくるわけ。僕とその人とで財津君の右腕と左腕を引っ張りっこするわけです。財津は苦労したと思いますよ。

(「青春の影」オンエア)

Q)タイトルは新田さんがおつけになった
スタジオで朝方になっちゃって、もう考える力がなくなって、財津君が。僕もなんだけど。それで「青春の影」っていいんじゃない?というと、財津君も「うん、いいんじゃないっすか」って。この曲はまさに巻き返しなんですよ。売れない歌をつくろうぜって、2人の合言葉だったの。売れなくたっていいじゃない、よければって。そのかわり、売れなくていいからホントの曲を作ろうねって。そんとき、よく言っていたのが「ロックの真髄ってさぁ、バラードだよね」って、そんな話を2人でしていて。財津君はThe Long Winding Road が一つのモチーフになったって言ってますけど、まぁ、そうだと思いますけど。


Q)チューリップを日本のビートルズにする意図はあった?
それはね、「魔法の黄色い靴」を聴いたときにね、福岡の海の向こうはリバプールじゃないかって思った。ホントとに思った。そのくらい福岡とリバプールが近い、あるいはロンドンが近いと感じた。福岡は進駐軍の放送が入るんだそうです。そういうの聴いていたんです。リバプールもまさに米軍の音楽入っていた。だからアメリカの音楽すごくはやっていた。聴いていた。

 財津君はまず東京へ出よう、東京がまずだったんですよ。そしてイギリスへ行こう、ビートルズの後を追っかけたいという気持ちがあった。最初からビートルズがあった。バッドフィンガーっていう、いわゆるビートルズの弟バンドっていわれて、イギリスにはこういうバンドがいるんだと。日本でもね、ビートルズはもう解散したけれど、こういうバンドないかなと探していたから、財津君の音楽聴いたときに即反応できた。やりたいと思った。やっぱり求めてないと、ただ驚くだけで、判断はできないと思うんですよ。
(以上)

 

あくまで新田さんから見た当時のエピソードであるし、驚くような新事実もないけれど、僕らが知りようもない財津さんのエピソードを聞かせてもらえるだけありがたい。実は1週間前の1回目の放送ではオフコースの話題も出ていた。だけど、もう1回ぐらい登場するそうなので、それを聴いてから、まとめてみたい。

 

【12日の備忘録】

休肝日3日目。朝=ご飯1膳、ハタハタ一夜干し、リンゴ、昼=肉うどん、夜=ニラモヤシ炒め。体重=62.6キロ。