『豊後国風土記』と伝承文献から日田をを考える

           「はじめに」
 
 日田の関係する文献は多くあります。その中でも『豊後国風土記』にスポットを当てながら、その他の伝承も考えながら、語りたいと思います。
 『日本書紀』は勝者(藤原氏)の歴史で敗者(蘇我氏)は抹殺されているとも言われます。また、『記紀』神話よりも風土記は正確性が高いとも評価されています。
 聖徳太子が教科書から消えるご時世に、大きなうねりが起きているのも事実。昨年亡くなられた梅原猛先生は、『隠された十字架』で法隆寺は聖徳太子の怨念を鎮魂する目的で建てられたとし、祟りの条件として、「無罪にして殺された」「無罪で殺されたものが祟りによって時の支配者を苦しめる」「時の権力者は自己の政権の安泰の為に祟りの霊を手厚く葬る」「祟りが神の徳を称える為に良き名をその霊に追贈る」という。聖徳太子こそ、その象徴だと言う。
 これは、あくまでも一説ですが、この日本は「祟り」の文化といっても過言ではない。大宰府の菅原道真もそうだと思うし、八幡神も祟り神なのです。奈良の三輪山も太田田根子という大物主神の祟りを伝える。
 この日田の歴史にも勝者と敗者がいて、その時代背景を文献は伝えようとしていたのではないでしょうか。あくまでも伝承だとしても、英彦山や日下部伝承にしても、なんらかの背景があったと思います。信じるか信じないかは、あなた次第です。
 

          「景行天皇の物語り」

 風土記の始めに、日田には、5つの郷があり駅は一つだと書く。続いて景行天皇の記述が始まる。
 『日本書紀』には、景行天皇の日田巡幸の記述はない。浮羽より日向へと動き大和へと帰る。(後ほど紹介を書く)
 
 八女以降の景行天皇の巡行の順番は次の通り「浮羽~日向~大和」への動きの「日向」には「国」が付かない。
 浮羽から飛行機に乗ったかのような移動劇も凄いのだけど、『続日本紀』には、日田を「日向」と書く(一般的には書き間違いだとされる)。また、「新編相模国風土記稿」には、日向は日田の転じたものと記述される。深入りはここまで。
    
            「石井郷」

 続いて次に石井郷が書かれる。昔、土蜘蛛がいた。そして石を用いないで、土で築きている。これによりて「無石」だから後の人は石井と呼ぶようになったという。
 ちなみに、6世紀の磐井の乱で有名な「筑紫の君・磐井」ですが、『古事記』では「石井」と書くのです。磐井は、物部麁鹿火との戦いで「豊国」の山奥に逃げ落ちたというので、石井を経由して動いたのかいしれない。
 また、田島の地名の由来に『豊西記』に、、「石井源太夫高明公」、当郡に下向き、来来里の着御あり。これによって村名としその後大原に館し昿田を開きという記述が残る。余談だが、成務天皇の頃、鳥羽の宿禰(会所山中腹に鳥羽塚がります)の記述があり、一般的には、同一視されているが私見は違うと思う。ちなみに、日田の神社をまとめた日田市老人会の記載でもこの二人は違うと書く(成務天皇の父が景行天皇)。「石井源太夫高明公」は磐井かもしれない。

 続いて、石井郷の中に川があって、阿蘇川という。その源は阿蘇から小国より流れている。そして玖珠川と合流する。合流した川が日田川となり、鮎が多く、筑紫へと流れ海に入ると書く。
 ただ、腑に落ちないのが、石井郷の拠点が今の石井なのか。風土記でも駅は一つだし、今の石井ならば、花月川と合流するとの記述があってもよさそうなのにと思う。地政学的に考えると、石井郷の拠点は今の高瀬という誠和町付近ではなかったかと思う。「鏡坂」も本当はここらかもしれない。

 次に書かれるのが、景行天皇。この国の形はまるで鏡の様だ。その場所の地名が「鏡坂」になったという。ただ、高瀬の地名の由来が書かれていないのだが、景行天皇は「鷹」だと私見では考えているので、この高瀬と景行天皇を考えると「鷹瀬」になる。ちなみに三隈川を渡って三芳へと動く先が日鷹(日高)なのも共通点がある。『豊西記』や『豊後国志』に記述される「鷹」伝承だと思う。
 ちなみに『豊後国志』には、日田を創世した「鷹」が田川へと飛び去った記述が残る。田川の昔は「鷹羽」という地名だった。その田川の神社には「都怒我阿羅斯等」という新羅の神がヤマトより、舞い降りた伝承が残る。西谷正氏も、その新羅の神が舞い降りた伝承(豊前風土記)を本で紹介している。

          「靭編と日下部伝承」

次には、日下部氏が登場してくる。もちろん、刃連町の由来である。
靭負村(ゆぎおひのむら)と言っていた.後の人が改めて靭編郷(ゆぎあみのさと)と言うようになった。(靭部とは部族で靭を作る靭編部,これを背負って戦う兵士を靭負部といった.従って靭部とはこれらの部族集団と思われる)という。欽明天皇の頃だから550年前後です。(※英彦山を創建した日田の藤原恒雄が531年・磐井の乱が527年で6世紀編半の日田の朝日天神山古墳(三輪玉)とも重なる)

次に書かれているのが、五馬媛の存在。今の五馬の地名の起こりである。簡単に紹介されているだけだが、五馬媛関係の神社である、玉来神社と元宮(五馬媛の墓があります)に共通されているのが景行天皇が合祀しされている事だろう。
 次には、筑紫地震が起きて天瀬温泉のルーツとなるもので、温泉が湧いたという記述が書かれている。

         「『豊後国風土記』の意味するものは」

 『豊後国風土記』には、石井郷と靭編郷の記述しかなく、五馬はどうも靭編郷に書かれている。そして、何故小野や夜明や有田や英彦山を創建した藤山(藤原)恒雄という伝承は書いていない。何故だろう?。
 『日本書紀』に書かれていない日田の景行天皇を何故、『豊後国風土記』は書いたのか。文献は、一般的には信用度が低く、景行天皇にしろ実在性は薄いとされる。亡くなられたが有名な考古学者の森浩一氏は「いつしか考古学では神話や伝説とは一線を画し、それについては言及しないことが、“科学的”だという逃避的な現象をも起こさせている」という。そして天皇が神となった反動での戦後レジームで大きな変化をみせているのも事実。
 
 私は、考古学と文献からと地政学を組み合わせる事によって、歴史の謎を解きたいと思っている。『日田郡史』には、「役行者が、2人の童鬼を連れて英彦山に来て修行し、そして「鷹」が飛来して日田郡外山に止まる(英彦山)。彦山地域を飛鷹郡、又は、日鷹郡と言いこの童鬼の末裔は大蔵氏を名乗りてと書く」。大蔵氏が鬼なのも察しがつく。大蔵氏は宇佐や和歌山との説がある中、英彦山という縁を日田の公的な公文書に書いているのも面白い。
 余談ですが、自由な発想こそが必要ではないか。飯塚が高島忠平氏を担ぎ「筑豊の邪馬台国」を始めて3年目に入る。ほとんどは寄付や年会費で年間予算600万だそうだ(補助金は5%程度)。運営費は企業寄付や会費によっての事業運営(この主催者は日田でいうパトリアの指定管理者で理事長が日田出身の方で日田とも交流している)。
 また、田川市長は、なんと巨大な「電通」を通じて田川邪馬台国説を始めた。それも、『記紀』神話や風土記や神社伝承などを駆使しての動き。炭坑からの脱却としての新たな地方イメージに取り組んでいる。
 沖ノ島と宗像が世界遺産になり、筑豊もその流れに乗りつつある。九州国博の河野氏が、日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が国宝になる為には、宗像から日田への物語をつくる必要性があると言われたのを覚えている。

           「日田の伝承」
 
 高住神社(英彦山の元宮と言われる)を創建した日田の藤原恒雄(藤山恒雄)伝承も、森春樹(江戸時代の日田の先哲)は、藤原恒雄を豊国法師(蘇我馬子から呼び寄せられた)だと言い「大化の改新で敗者となり虚しく余生を藤山で過ごしたと書く」。日下部伝承から続く6世紀以後のの日田の物語りです。
 また、『豊後国志』(森春樹が伝える)が伝える、西から飛んできた鷹が日田を創世し、鷹羽(田川)へと飛び去って行ったという伝承は、ある意味、日田の次に日子山(英彦山)で次に筑豊で、次に宗像と沖ノ島だとも考えられる伝承。
 英彦山伝承では、宇佐から宗像三神が英彦山へやって来て、次に宗像に舞い降りた伝承も証明している。
 そして、『古事記』の、天津日高日子番能邇邇芸命(ニニギの命)と天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(フキアエズの命)の「日高日子」は「ひこひこ」と呼ぶ。日高と日子は同じ意味をなしている。(日子山(英彦山)と日田という日高が同じ呼び名)

 『日本書紀』では、景行天皇は浮羽から日向そして大和へ帰る。『日本書紀』の天照大神が生まれた「筑紫日向」や天孫降臨の「筑紫日向」そして神武東征と景行天皇の宮崎は「日向国」と書く。浮羽から移動したのは「日向」で「日向国」ではない。『豊後国風土記』に景行天皇が記述されている意義は大きい。浮羽から日向(ひこ)へ向かったのではないか。

 文献資料がすべて嘘を書いているのでしょうか。私見としての歴史の敗者の景行天皇(鬼・鷹)と藤原恒雄に『豊後国風土記』や『日田史参考資料』を通してスポットをあててみたいと思う。別府大学の下村教授が古代日田と筑豊のつながりを言った様に考古学と「鷹」伝承とつながっているのです。

 東国(江戸・大和)による王権という権力者の影響で日田の豪族(鳥羽宿禰・日下部石井源大夫・中井王・大蔵など)も入れ替わり、豊臣も徳川もそうであるように、九州の日田に楔を打ち込む歴史は、邪馬台国(小迫辻原遺跡・布留式土器(畿内・山陰・東海の土器が持ち込まれている))から明治維新(松方)まで永遠と歴史は繰り返していたのです。
 (※本居宣長の邪馬台国説から、本当の邪馬台国は畿内だが、九州の偽卑弥呼(邪馬台国)が魏に朝貢したという邪馬台国偽僭説は、考古学(赤塚古墳・小迫辻原遺跡)と『記紀』神話(仲哀・神功皇后)が一致する。九州偽邪馬台国は畿内本当の邪馬台国から滅ぼされた?)

 終わりに、先人の残した文献を否定しまっても意味がない。敗者の歴史を伝えるのも文献なのす。『記紀』神話』『旧事紀』『和名類聚抄』『東鑑』『大宰管内志』『豊後国風土記』『英彦山流記』(※中野幡能氏は、英彦山修験道の起源については中国から来た善正が開山しているが、「彦山流記」(彦山の最古の書物)は善正の事はいっさいふれていない。つまり恒雄が彦山修験道を開いた。『彦山伝承の謎』添田町役場出版より抜粋)『鎮西彦山縁起』『日田史参考資料』『日田郡誌』『矢野家伝』『豊西記』「森春樹」をもっと総合的に研究をしていくべきだと思う。2世紀から8世紀の歴史の敗者の日田と筑豊の古代の歴史がこれから輝くようになるだろう。
 添田町役場の英彦山を研究されている職員の方が、『記紀』神話の「高天原」は英彦山という。まさにその通りで「鷹天原」なのかもしれない。
 英彦山の神紋は「鷹」で、英彦山周辺にある多くの高木神社も高皇産霊神で、高は鷹の意味が含まれている。英彦山の鷹巣山に高住神社があるのも「鷹が住む神社」なのかもしれない。
 先人が後世の為に残したメッセージを私たちは大切にしないければならいと思う。

                            佐々木祥治