後編 英彦山=日子山信仰とは何か 山の神、洞窟、火と医術が重なってできた宗教世界 英彦山信仰
後編英彦山信仰とは何か山の神、洞窟、火と医術が重なってできた宗教世界英彦山信仰とは何か。この問いに対して、単に「修験道の信仰」と答えるのでは、本質の半分しか語ったことにならない。たしかに英彦山は、中世には三千坊を擁する大修験道場となり、羽黒山・熊野大峰山と並ぶ日本三大修験山の一つとされた。山伏、僧兵、峰入り、護摩、加持祈祷――そうした言葉は英彦山の姿をよく表している。しかし、それらは英彦山信仰の完成した姿であって、その根はもっと古く、もっと深い。英彦山信仰の本質は、山そのものを神霊の座とみる古層の山岳信仰の上に、洞窟信仰、祖霊観、医術、鍛冶、渡来宗教、八幡・白山・熊野の要素が幾重にも重なって成立した複合宗教にあると考えるべきである。まず、すべての土台にあるのは「山そのものへの信仰」である。宮家準は、縄文以来、人々は山や森林の中で生き、その中で「獲物を与える山の神」を信じていたと述べている。弥生以降、農耕が広がると、山の神は今度は水をもたらす存在として理解されるようになり、里人は山麓に祠を設けて豊作祈願の祭りを行った(宮家準『修験道と日本宗教』)。山は遠くから仰ぎ見るべき聖なる存在であり、そこには神も祖霊も死霊もいると考えられた。英彦山信仰の出発点もここにある。つまり、修験道以前に、すでに英彦山は人の力を超えたものが宿る山として畏れられていたのである。宮家準はまた、山岳を「他界」であり「境界領域」であるとする。これは英彦山理解にとって決定的に重要である。山は俗界と聖界の中間にあり、上は天に通じ、下は地下や死者の世界にも通じる。だからこそ山は、神仏の降臨する場所であると同時に、怨霊や妖異の棲む場でもあった。英彦山に天狗や鬼の伝承が多いこと、奇岩怪石が多く、異様な空気を帯びる行場が点在することは、この古い山の感覚をそのまま伝えている。山の霊性とは、美しい景観だけではない。人間の秩序を超えた荒ぶる力、得体の知れない異界性こそが、山を山たらしめていたのである。その英彦山信仰の古層をもっともよく示すのが、四十九窟の伝承である。英彦山には古くから四十九窟があるとされ、これを弥勒の兜率内院四十九院に擬した解釈もなされてきた。しかし宮家準は、そこにとどまらず、この四十九窟が「洞窟籠もり修行の古い形」を示すものだと指摘する(宮家準『山伏』)。ここが非常に重要である。なぜなら、英彦山信仰の原型が、山中を縦横にめぐる峰入りではなく、まずは岩窟の中に身を置き、そこで神霊を感得する信仰にあったことを意味するからである。洞窟とは何か。記紀の岩戸開きを思わせるように、洞窟は光が失われ、再び光が現れる場所でもある。外界の光を断ち、地中へと向かう口であり、死と再生、母胎と冥界を象徴する場である。古代人にとって、洞窟に入ることは単なる隠遁ではなく、いったん死の側へ身を置き、そこから神意や霊力を得て戻ることだった。だから洞窟にこもる者は、ただの隠者ではなく、生と死の境を往還する宗教者だったのである。英彦山信仰の最初の強さは、この洞窟性、すなわち人里から切り離された深山の岩窟で神霊と接触する感覚にあったのではないか。ここに仏教が入ると、英彦山は新たな意味づけを受ける。『修験道の本』が引く『彦山縁起』によれば、継体朝のころ北魏の渡来僧善正が英彦山に入り、修行中に日田の猟師藤原恒雄と出会う。恒雄は弟子となって忍辱と名を改め、ついに山頂で阿弥陀・釈迦・観音の本地仏を見たとされる。この物語の史実性は慎重に扱うべきだが、そこに表れている宗教的意味は明確である。すなわち、英彦山は在地の山人によって感得されていた霊山であり、その霊性に対して、渡来仏教が新しい言葉と図像を与えたのである。山の神は権現となり、洞窟は霊窟となり、山そのものが仏の浄土や道場として再解釈される。英彦山信仰とは、在地の山の霊威が、仏教の語彙で再編成された信仰でもあった。しかも、その仏教は都の国家仏教のような整然としたものではなく、もっと民間的で複合的な性格を持っていたと考えられる。大和岩雄は、豊前・豊後には仏教公伝以前にすでに「私宅仏教」に近いものが入り、そこには陰陽道や朝鮮半島の固有信仰が混じっていた可能性を論じている(大和岩雄『秦氏の研究』)。中野幡能もまた、豊国法師や法蓮の宗教的背景に、巫術・療病・医術・新羅系要素が重なっていることを指摘する(中野幡能『八幡信仰と修験道』)。この見方に立つと、英彦山信仰は単なる「仏教化された山の神」ではなく、山岳信仰・巫術・道教的要素・新羅仏教的要素が溶け合った宗教として見るべきである。その特徴がもっともよく出るのが、医術と火の宗教という側面である。中野幡能は、法蓮が医術によって賞せられたことを重視し、大和の役小角と並行して、東九州では法蓮が別のかたちの原始修験を担っていた可能性を示唆する。また『修験道の本』は、山伏が狩猟民や鉱山・金属加工者と密接な関係を持ち、その文化の古層に「火を中心とした体系」があったと述べる。護摩の火、精錬の火、治病のための火、鍛冶の火――これらは別々のものではない。人間の生死と吉凶を左右する力としての火が、英彦山信仰の中核にあった可能性が高い。そう考えると、英彦山は単なる修行の山ではなく、病を治し、災いを払い、火と金属の霊力を操る山でもあったのである。この点は香春岳や宇佐との関係でもよく理解できる。香春は採銅の地であり、『豊前国風土記』にも「新羅国神」の記事が見えるなど、古くから渡来系の技術と信仰が交わる土地であった。大和岩雄は香春周辺の「唐」「加羅」を思わせる地名や、鍛冶神・天日槍系伝承、秦氏や辛嶋氏の動向を手がかりに、この地域全体に渡来系宗教文化の深い基盤があったと見る。英彦山はその香春の近傍に立ち、また宇佐八幡とも深くつながる。宇佐の法蓮、香春の採銅と新羅国神、彦山の洞窟と山伏。これらは別々に発生したのではなく、豊前・豊後北部に広がる一つの宗教文化圏の諸相として見る方が自然である。さらに英彦山信仰には、白山・天童・太白山の問題が重なる。中野幡能は、北部九州の白山信仰には、加賀白山由来だけでは説明できない古層があり、そこに朝鮮半島の太白山・小白山信仰との関係を見る。英彦山にも白山権現や天童信仰が付随するという指摘は、この山が単に日本中世の勧請で構成された霊山ではなく、より古い東アジア的山岳宗教の記憶を宿していることを示唆する。とくに「天童」の存在は重要で、山に降臨する童子・少年神のイメージは、新羅花郎や檀君神話の神人イメージとも響き合う。もちろん、これをそのまま史実的に断定することはできない。しかし、英彦山信仰の深層には、山に降りる神、山に籠もる少年、山そのものを聖化する思想があることは確かである。また英彦山信仰の広域性を示すのが、熊野との関係である。『熊野権現御垂迹縁起』によれば、中国天台山を発した神は、まず鎮西の日子山、すなわち英彦山に降り、その後伊予石鎚、淡路、紀伊を経て熊野に至ったという。五来重は、この縁起の核心を、「修験道は仏教公伝以前から開けていた」という自己主張に見る。つまり熊野にとっても英彦山は、ただの地方霊山ではなく、より古い原聖地として想像されていたのである。これもまた、英彦山信仰の重みをよく表している。九州の山でありながら、列島規模の宗教地理の中で高い位置づけを与えられていたのである。その一方で、英彦山信仰は山伏によって組織化され、実際の社会の中で機能した。中世には僧坊が立ち並び、僧兵的力を持ち、武芸、祈祷、芸能、配札、講組織を通じて九州一円に信仰を広げた。つまり英彦山信仰は、山中だけに閉じたものではなく、里へ降り、村落へ入り、人々の病気平癒、家内安全、五穀豊穣、火難除けに応える宗教となった。山で感得した力を里で働かせる。この往復運動こそ、修験道の社会的意味であり、英彦山が巨大な宗教勢力となりえた理由でもある。山の神はただ山上にいるのではなく、講と札と祈祷を通じて村落社会の中に入り込んでいたのである。だが、それでもなお英彦山信仰の核心は、里に降りた後の効験だけではない。核心は、あくまで深山の霊威そのものにある。奇岩怪石、行場、岩窟、鎖場、望雲台、奥宮――こうした場所に立ったとき、人は山を単なる地形としてではなく、超越的な存在として感じる。英彦山信仰が強いのは、その深山の感覚を失わずに、しかもそれを医術や火や加持祈祷や八幡信仰と結びつけて、現実社会の中で使える宗教にしたところにある。だから英彦山は、厳しい修行の山でありながら、同時に現世利益の山でもあった。そして、私が最後に強く感じるのは、英彦山の鷹である。英彦山神宮、高住神社に見える鷹の神紋は、単なる意匠ではなく、この山の信仰の深層を象徴しているように思える。鷹は高く飛び、天と地の間を往還し、獲物を見抜く。太陽の使者であり、神意を運ぶ鳥でもある。もしこの鷹の信仰が、卑弥呼や台与の祭祀世界と折り重なっているとすれば、そこには記紀以前の女王信仰や女神信仰の痕跡が隠れている可能性がある。さらに想像を進めれば、玉依姫や神功皇后が『記紀』において四世紀的な王権史の中へ巧みに配置されていることにも、別の意味が見えてくる。つまり、より古い女神的・巫女王的な信仰の系譜を、後代の王権神話の中へ編み替える意図があったのではないか、ということである。こうした視点に立つと、英彦山の鷹、宇佐の比売大神、玉依姫、神功皇后は、別々の存在ではなく、女王信仰を編み替えた神話の断片として見えてくる。そしてそこから、出雲神話への視線も開けてくる。私は以前から、出雲神話の本来の舞台は、一般に考えられている山陰の出雲だけではなく、英彦山を中心とした北部九州にも深い原型があったのではないかと感じている。大阪教育大学の鳥越憲三郎氏が、出雲は「舞台として借りられた」と論じたことを思えば、本当の出雲とはどこか、という問いはなお残る。大国主命という存在もまた、もともとあった在地の深い神を覆い隠し、別の神話体系の中へ編み直すために立てられた神格だった可能性がある。もしそうなら、出雲大社のさらに深層には、男神だけではない、女神を中心とした古い信仰が潜んでいるのかもしれない。結局、英彦山信仰とは何か。それは一言で言えば、山そのものを神霊の依り代とし、洞窟を他界との接点とし、祖霊・死霊・神仏の気配を宿した深山に、仏教・修験道・医術・鍛冶・白山・八幡・熊野、そして鷹や女神の古い象徴体系までもが折り重なってできた、北部九州最大級の複合宗教体系である。そこには、古い山の神の畏れがあり、渡来宗教の知恵があり、火と薬の技術があり、村落社会を支える祈りがあった。英彦山信仰の強さは、この重層性にある。どれか一つだけでは英彦山は説明できない。山の神だけでもなく、仏教だけでもなく、修験だけでもない。それらすべてが、英彦山という一つの山に沈殿し、結晶したものこそが、英彦山信仰なのである。