『豊後国風土記』が伝える久津媛と五馬媛と景行天皇の謎

 

久津媛は本来、「比佐津媛」と書く。久津媛は日田古代の中心地とも言われる今の三芳地区で、その中には日高(ひだか)という地名もあります。日田駅から天瀬に向かって1km先に小高い山(標高百六十m)があって、その山頂に久津媛神社に祭神されている。また五馬媛は天瀬温泉の南側台地に五馬台地がり、玉来神社、元宮神社に祭神されている。

 

 九州に伝えられている宇佐津媛(宇佐・神武紀)、神夏磯媛(山口県・景行紀)、速津媛(大分県速見・景行紀)、泉媛(宮崎県・景行紀)、八女津姫(福岡県八女・景行紀)、田油津媛(山門郡・瀨高・神功紀)、久津媛(日田・豊後国風土記)、五馬媛(日田・豊後国風土記)
海松橿媛(松浦・肥前国風土記)、八十女(杵島・肥前国風土記)、浮穴沫媛(彼杵・肥前国風土記)がいます。日田には二人の媛が存在していた事がわかる。

 

久津媛の謎

 

 『豊後国風土記』に登場する久津媛(ひさつひめ)は、会所山(よそやま)という、水道タンク(田島と三芳の境)のある山の山頂に奉られている。

 この山のトンネルは比佐津トンネルと言われているので、久津媛=比佐津媛は同じだという事がわかる。この比佐津という意味が後ほど重要な意味をおびてくる。

 『豊後国風土記』によれば十二代景行天皇が日田に凱旋した時に「久津媛という神が人となり現れる」表現をしている。また、久津媛が訛り「日田」という地名になったという。

   久津媛とは、何者なのでしょうか。『魏志』倭人伝の卑弥呼、台与(卑弥呼の後継者)や『記紀』神話の天照大神だという話しもあるが確証があるわけでもない。

 ヒサ=日佐だから、太陽を補佐する意味を示しているのは事実だ。日本の歴史学者、駒澤大学瀧音能之教授は『出雲世界と古代の山陰』で甘美韓日狭(うまからひさ)は、「うまし(素晴らしい)から(韓・韓人)・ひさ・・鏡・・」ではと著書で紹介している。

 

 景行天皇異様さがわかる。明治に書かれた絵図に「鬼塚」というものがあり、景行天皇はそこで禊ぎを行い久津媛と会ったという伝承が残る。また久津媛神社か分社された会所宮神社には、景行天皇が九州各地より軍勢を集め軍略して三韓征伐に向かったという記述も残る。

 

 景行天皇という大きなキーワードが出現したのだが、景行天皇のルートは『日本書紀』では、浮羽(うきは)から忽然と日向(宮崎)に向かっている。浮羽からの先の記述の意味がなかった。それとも日田が日向だったのか。

 相模国風土記には「当郡の郷名に 日田あり、日向と字形相似たる」という。また『続日本紀』には日田を日向と記述する(記述ミスという説も)。

 少なくとも、日向(ひゅうが)は、『日本書紀』にあるように、景行天皇が名付けた地名であって、天照大神が誕生した「日向」は宮崎でない事がわかる。

 私見は日向は「ひこ」、「ひこう」と読むのではなかと思っている。そこは後ほどの英彦山(日子山・忍穂耳命)で謎を解く。

 

難解なのが五馬媛。五馬媛は一般的には5世紀、6世紀の女神というのがこれまでの定説でした。しかし、五馬媛を祭神する玉来神社や元宮神社には景行天皇が祭神されている。玉来神社に限っては景行天皇が主祭神のようだ。

 久留米の高良神の「高良玉垂命」には「玉」という謎が関わる。高良玉垂は、武内宿禰という伝説も残るが、この「玉」のつながりを私は重要視する。詳細は割愛するが、景行天皇=武内宿禰・仲哀天皇(入根・振根-素戔嗚尊、月読尊)とも関連している。

 

 日田には「土蜘蛛としての」五馬媛と「神として現れた」久津媛という対照的な媛伝説が残る。同じ地域で二人の女神がいるのも九州では類を見ない。

 私見は卑弥呼と台与を別の王権とみる。ヤマトから追い詰められて奴国から南下して行った卑弥呼は最終的に日田に逃れていった。

 別府大学の下村教授は日田の講演会で、奴国と立岩遺跡と日田の吹上遺跡は同じ勢力で奴国と深い結び着きがあった場所(出張所か親縁関係)と言う。

 そして宇佐の赤塚古墳そして日田の日本最古の豪族居館跡の小迫辻原遺跡は、ヤマト色の強い遺跡である。小田富士雄氏も小迫辻原の異様さを紹介している。卑弥呼の時代に伊都や奴国や吉野ヶ里や甘木の川添なども衰退する。これをどう謎解くのか?

 

 詳細は割愛するが、奴国から日田に逃れてきた来た卑弥呼を撃ったのがヤマトの卑弥呼で「台与」ではなかったか。日田に何故二人の日巫女が存在していたのか。そして本居宣長説や関裕二氏の邪馬台国説から導くとこうなる。九州国立博物館の河野氏も歴史作家の関裕二氏も日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は奴国から伝世されたものと説く。

 卑弥呼は『記紀』神話から記述されなく、土蜘蛛的に田油津媛や八女津媛に属し台与は神功皇后として表現されたのかもしれない。卑弥呼が逃亡したのも奴国→瀨高(田油津媛)→八女(八女津姫)→日田(五馬)へと筑後川南岸を景行天皇は追い詰めたのかもしれない。

 

 

 

 

 景行天皇の謎

 

 天照大神の生まれた日向は宮崎でない。『日本書紀』には「日向」の語源説話として、景行天皇と日本武尊の征西説話において、「是の国は直く日の出づる方に向けり」と言ったので、「日向国」と名づけたと記述されている。

 神話の日向は三つあって、①天照大神と素戔嗚尊と月読尊が生まれた「日向」。②天孫降臨地の「日向」③景行天皇が名付けた「日向国」

 この日向を区別しないで混同していると『日本書紀』の嘘に巻き込まれてしまう。①と②には日向であるが③は日向国である。『日本書紀』の天孫降臨は邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。と言い日向国とは記述されていない。また『海神宮 訪問神話の研究』宮島正人氏も[日向]という名称がこれほど頻繁に『記紀』に登場するというのに筑紫島の中に正しく[筑紫国]の存在は見えても一方の[日向国]の名称が出てこないのはなんと言っても不自然であるという。

 

 『日本書紀』は浮羽から日向に向かったというが、『豊後国風土記』は、景行天皇が浮羽から日田に凱旋したという。また五馬の玉来神社にも景行天皇が祭神されている。

 北部九州には、景行天皇や神功皇后などの多くの伝承があり、英彦山にしてもしかり。残念ながら日田を全く研究されてないのが現状です。例えば英彦山を創建した日田の藤原恒雄は古代九州の謎を解く大きなヒントが眠っている。話しを戻そう。

 

 『豊後国風土記』の景行天皇の日田凱旋をどう謎解くのか。答えを言ってしまえば、徳川と豊臣が日田を天領地にしたように、古代も同じ歴史があったのではないか?。

 日田江戸時代の先哲の森春樹は言う「成務天皇の頃の日田国造り鳥羽宿禰(葛城同祖)~大化二年までの五百四十年間、日田は豊国に隷さない日田国だった」と書く。『古事記』の

 九州の『筑紫(つくしの)國は白比別(しらひわけ)と謂ひ、豊(とよ)國は豊日別(とよひわけ)と謂ひ、肥(ひの)國は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂ひ、熊曾( くまその)國は建日別(たけひわけ)と謂ふ』詳細は割愛するが、この建日向日豊久士比泥別に日田が入り込んでいると思う。

 

 景行天皇の最終目的地は日田であって、会所神社に残る、神功皇后が九州各地から軍勢を集めて軍略したという伝承にも通じる部分である。そして武内宿禰とこの景行天皇が結びつけば「玉」という意味や実は日田に武内宿禰と神功皇后が眠っているとは誰も想像できないだろう。

 大げさだが、「男と女」と「男と二人の女神」の意義が、日田という文字に封印されているのかもしれない。そう口の中に-と+の陰陽が意味している。


 

 日田に残る神功皇后伝説

 

 『豊後国風土記』に登場する久津媛神社周辺に、何故か神功皇后伝説や応神天皇出産の伝承がある。

 もう一つ、「神」つながりがある。久津媛という神が人に化けて景行天皇をお迎えしたという。天皇で「神」が付くのも神武、崇神、応神であり、天皇ではないが神功皇后(天皇と書いたのもある)なのだ。

 神とは人間でなく死んでいる事を意味しているでしょう。久津媛とは本来、男神の可能性も視野にいれている。何故なら・・・

『古事記』に記述される出雲の国造りの祖、岐比佐都美である。『古事記』には「岐比佐都美(キヒサツミ)ト称ス。垂仁天皇ノ二十三年甲午冬ノ十一月朔乙未皇子本牟智和気命(ホムヂワケノミコト)出雲大社ニ参(別名)来日田維穂命(キヒタイホノミコト) 拝シ、始テ言ヲ発セラレ、還啓ノ後、天皇歓喜シ給ヒ、即チ菟上王(ウナカミワウ)ヲ遣シテ出雲神宮ヲ造営セシム」

 岐比佐都美は野見宿禰(相撲協会の相撲の神)の父的存在で別名を「来日田維穂命」という男性神である。日田の「比佐津媛」とこの「岐比佐都美」は同一視する事が可能ではないかとも思う。そう考えると、久津媛は伊勢神宮の様に、天照大神は男性神かという説にたどり着く。異様な説と受け止められるが、景行天皇と久津媛(男性)は素戔嗚尊と月読尊そして入根と振根そして武内宿禰と仲哀天皇と折り重なってくるのも不思議である。

 どうして景行天皇が「禊ぎ」をしてまで久津媛と会ったのか。その謎は仲哀天皇と武内宿禰という不倫関係にたどり着くかもしれない。そして出雲の神宝にもつながっていく。そう景行天皇と武内宿禰が同一視という大きな意味を持ってくる。