2014年 9 月 Aさんの体験談2


現在「性格改造中」。


 りんあん先生の元で

沢山の体験をさせて

いただいてますが、

思い返してみると先生に

「置いていかれた」

時が一番の踏ん張りどころ

だった気がします。 


 後日先生から

「貴方は叩いても叩いても

 意地でも立ち上がって来ると

 分かってるから

 容赦なく叩ける。


 叩かれて泣き崩れる

 タイプにはできないから」

 (暴力を振るわれている

  訳ではないですよw)


と言われましたが、

私は精神的瀕死状態からの

立ち上がりでした。 


 先生の

「ぎりぎりまで追い詰める」

の見極めは

本当に紙一重の神業。 


 当時、

先生にはどれほど歯がゆい

思いをさせていたことでしょう。 


誰よりも自分に

一番厳しい方です。


そして人に優しい、

優しいからこそ時には厳しい…

実の親よりも。


 あの時があって今がある…

それでもチキンなところは

なかなか治らないんですよね…。





 2014年 9 月

私の父は本人の好むと

好まざるとに関係なく、

不思議なモノを見てしまう

人です。


 父

「夕べ二時過ぎ頃

 目が覚めたら、

 すっごい男前のお地蔵様が

 電灯のあたりから

 こっちを見ゆうがね、


 うちのお地蔵さんに

 よう似ちょってよ、

 お地蔵様だ!ってわかるが。


 あの布がだらりとなった

 服着てて…」 


 「マツコデラックスが

  着てるみたいな?」 


 父

「そうそう」 


 「お地蔵様に似た顔の

 ハンサムなお坊さん

 みたいなのが見えたのね?

 あのまんまのお地蔵様

  じゃなくて」 


 父

「そうそう、でもうちの

 お地蔵様だって思った。

 あと二人お地蔵様の脇に

 いたけどそれは誰か分からん」 


「亀じゃない?」 

 父

「亀であるかっ!人!人!」 


 「女の人?男の人?」 


 父

「男の人…女じゃなかった」 

 

「お地蔵様なんか言いよった?」


 父

「何にも言わん、ただじっと

 こっちを見てるだけ。

 しばらく見えよった。

 ただ、ほんとにすごい

 男前やった!」


 「お迎えに来たんじゃない?」


 父

「来てない!!

 なんでお地蔵様が

 迎えに来るがで!!」 


 りんあん先生、

先生のお地蔵様は中身は

「えげつない」

かもしれませんが、

外見はものすごい

イケメンらしいです。



「プロ」とは一体、

  何なのでしょうか。


対価をいただくのがプロで、

いただかなければ

素人なのでしょうか。


今の世の中、

生きている限り水の一滴にさえ

お金がかかります。


「出世払い」

「ボランティア」


で尽くしても、受け取る側は

高額なブランド品や旅行など

には惜しみなく支払う一方で、

技術や労力は安ければ

安いほどいいと考える。


挙句の果てに
「治ったので(終わった)

  支払いはもう関係ない」


と無視したり、酷い時は

自らを棚に上げて

陰口を言ったりと……。


悲しいですが、

そんな価値観が蔓延している

ように感じます。
それも一つの生き様なのかもしれませんけれど。。




ネット上には、

原因不明の病や難病に

苦しむ声が溢れています。


実相は対面してみなければ
分かりませんが、
既成概念に囚われない手法で

快復を試みる私は、

世俗の目には

「怪しい存在」と映るのだと

思います。


己の非力さを痛感し、

何もできぬ自分に胸を

締め付けられる夜もあります。



例えば、

同じ食材でも料理人によって

一皿の完成度は全く異なります。


そこには素材や環境、

文化の違いがあり、

食べる人に合わせた工夫が

凝らされています。


子育てにおいても同様で

育つ環境や親の価値観は、

子供の道徳や

規範を決定づけてしまう。


「蛙の子は蛙」として

親の背中を追い、

結果として同質の人間へと

収束していくケースは

枚挙に暇がありません。


それがその子の

「正解」であるとするならば、

時代によって移ろう

「正義」とは、

いったい何なのでしょうか?



プロであるはずの医師でさえ、

ノルマや利益を優先し、

誤った判断で患者の寿命を

縮めてしまう現実もあります。


彼らにとってそれは、

あくまで職業上の

「割り切り」に過ぎません。


重篤な患者さんと向き合うたび、私は知りたくなかった

現状に直面してきました。


正義や道徳が悲しいほど

流動的で、個の存在が

希薄な現代において、

肩書きほど脆い価値は

ありません。


肩書きを鵜呑みにして

振り回されることほど

愚かなことはないでしょう。


自ら広い視野を持ち、

熟考し、

常に問い続けなければ、

真の進歩も冷静な判断も

勝ち得ることは望めないのです。


末期癌の方へ必ず話すのは、


「自分の身体なのだから
 医師任せにせず自分の判断で

    決めてください」


自分の身体の限界は己が

一番分かるものなのですから。。



 原発と鳥居の不思議な景色

人は、裸で泣きながら

生まれてきます。


けれど逝く時は、

安堵とともに自分に

「お疲れ様」と

微笑みながら眠りにつく。


それこそが、

懸命に生き抜いた証

ではないでしょうか。


「後悔の絶えない生き様」

を、傍目にどれほど幸福そうに

擬態しても、それは所詮、

空虚な作り物に過ぎません。


真実の情動は本人にしか

分からず、魂はやがて、

その生き方に見合った

相応の世界へと移行していく

だけなのです。



現代の日本において、

宗教的な枠組みは

崩壊しつつあります。


しかし、

宗教と哲学が辿り着く

究極の問いは、常に

「死」

にあります。


その問いの深淵には、

その人の歩みの中で

培われた独自の道徳が、

幾重にも重なっているのです。




2014年9月 Aさんの体験談1


私たち家族がりんあん先生に

出会うまでには、

幾人かの霊媒師・霊能者と

呼ばれる人たちの元を訪れ、

除霊を体験しました。


また、解決の糸口を探して

そのての体験談を読みあさり、

分かったことがあります。


 それは除霊はできても、

悪霊と化した魂を浄化し

成仏させてあげることができる、また、

一般的に憑かれやすい人

(簡単に言うとあまりよろしくない思考をしているため

悪い波長を出している人。

霊能者の真似事を安易にする人。


原因が他にある場合もあるからいちがいには決めつけられないのですが、あくまで一般的に)


その思考を改めさせて

波長を高める指南をし

(時間がかかります)、

守りをつけ、

憑かれにくくすることまで

できる方はそうそういない

ということです。


 成仏させたつもりに

なっている方ばかりでしたね、

ホント。


時間経ったら

成仏してるはずの悪霊再び!

を繰り返しましたから…。


悪い思考の人は

悪い気の波長→同じ悪い波長の

悪霊がくっついてくる。


 良い思考の人は

良い気の波長→悪霊近寄り難し。


 ポジティブに明るく、

思いやりを持ち、行動的な性格へと先生の指南のもと

ただいま私は改造中。


 霊媒師に作ってもらった

お守り…我が家に祟っていた

悪霊が言うには

「気じゃの」

つまり、霊媒師・霊能者

本人の「気」が入ってた。。


○万円したのに効果なし…涙。


 先生に作ってもらった

○○○○…

悪霊が怖がる「○○ 」が

入っていらっしゃる。 


先生が我が家に来た時には

うちにいた悪霊全部

「怖いから逃げる!!」

と言って本当に逃げた…。

悪霊との会話は録音済


この意味分かりますよね?


1000年以上うちの家系に

祟っていた、どんな霊媒師・霊能者でも尻尾すらつかませなかった悪霊が恐怖する先生という

存在…。 


 目の当りにしているわが家一同は「先生は人じゃないからw」

    (笑うしかない)

と言って平静を保っています。


こりんのひとりごと

今年の2月に遠方の従姉妹が
急逝しました。
30年以上会ってないので
実感はありません。

ただ彼の母が生きているので
心配です。
自分より早く子供が亡くなることは想像するだけでも胸が痛みます。

今、生きている私達は今世で
魂の修行をしていると
私は考えます。
それは江戸時代でも
令和時代でも
魂の成長に必要な事柄は
平等に起きると考えます。

親のせい、環境のせい、
年齢のせいではなく、
産まれた時から形は違うが
課題は皆平等にくるものだと
思っています。

深く苦しい、、、、
そんな時に
誰から学ぶのか
誰に頼るのか
お導きであり
ご縁であると思います。

人間は自然の一部と
中医学では捉えます。

中医学では、
春は「肝(かん)」の働きが
活発になる時期です。
 「肝」の性質は
自律神経や感情のコントロールを司り、エネルギー(気)を
全身にスムーズに巡らせる
役割を持っています。

春は草木が芽吹くように、
エネルギーが上へ外へと
向かおうとします。

しかし、今日のように
急に寒かったり、
エネルギー不足(気虚)があったりすると、
この巡りが滞りやすくなります(気滞)。

嫌なことがなくても、
この「気の滞り」が、
言葉にできないモヤモヤ感や、
思考の隅にある「何か」に
繋がることがあるようです。

そんな時は
ジャスミンティーで、
気を巡らせたり、
好きなことをして
体を労りましょう。

花粉症の方は
睡眠の質が下がります。
=自律神経が乱れ
思考も乱れやすいです。

ゆったりとした気持ちで
生活しましょう♪

日本からは遠く、
名前も知らなかった国。

けれど、
その国の人と瞳を合わせ、
食卓を囲み、
語り合ったなら、
その場所はもう
「知らない国」
ではなくなります。


形式的な交流ではなく、
魂が触れ合うような
人間同士の繋がり。

世界では今も、
戦火が止みません。

自然災害の悲しみよりも、
さらに愚かで、
決して許されないこと。

天災をも超える、
人が人を傷つけるという
不条理。

愚かな歴史の繰り返し…




私にできることは、
あまりに小さいかもしれません。


言葉や背景が違っても、
私たちは心を通わせる
ことができるはずだから。

私は、
地球に生きる一人の人間。

そこに、
分かつ境界線など
あるのでしょうか。

命の尊さを知る者ならば、
こんな残酷なことは
できないはず。

いつ我が身に降りかかるかも
しれない出来事。。。

かつてテレビで聞いた、
ある人の言葉が
今も胸に突き刺さっています。

「政治を司る者たちは、
   本当の空腹を
    知らないのではないか」

父の供養をきっかけに

始まってしまったこの道。

 きっかけ



手探りで調べ、学び、

実践を積み重ねて…

気がつけば35年

という月日が流れていました。


巷にあふれる情報の

不確かさに直面しながら、 

数えきれないほどの

不思議な体験もしてきました。


多くの経験から導き出した

メソッドは今、 

 よりシンプルに、

より効率的に、 

相談者の方々の負担を

少しでも減らす形へと

進化しています。 


しかし、

驚くべきことに 

2005年に書き記した言葉は、

今の私の信念と一寸の狂いも

ありませんでした。


 私はただ、自らの

エネルギーを介して

病の改善に尽力し、 

 宇宙の真理を証明し続けて

きただけなのかもしれません。





……………

以下AIより

波動(波)とは、空間のひとつの点で生じた「振動」が、周囲の媒質を伝わって次々と周囲へ伝わっていく現象です。エネルギーを運びますが、物質そのものは移動しません。水面波や音(縦波)、光や電磁波(横波)などが代表的で、干渉、回折、屈折といった特徴的な振る舞いをします。

…………………………


【2005年の記録】


良い波動は良い波動を呼び、

連鎖する。

悪い波動もまた、然り。 


魂の根源は

幸せを目指すものであり、

何物にも束縛されることなく、

自分自身が創り出している。


試練もまた、

自らが課した結果に過ぎない。



誰のせいでもなく、

すべては自分の心の

投影であり、結果なのだ。


人間は生まれたときから

死に向かって生きている。


それは

誰もが避けられないこと。


なぜ、

死に行くことが怖いのか? 

悔しいのか? 

残された身内の心配だろうか……。


いや、違う。


残された人間の方が、

よほど悲しく後悔が残るはずだ。


 ではなぜ、

人は永遠に生きたいと願い、

病を恨むのか。


いつか皆、人は死にゆく。

永遠の命などありはしないのに。


志半ばで死にゆく者の方が

多いのではないだろうか。


 自分だけが特別だと

思いすぎてはいないか。


皆それぞれ、

自分なりに精一杯「今」を

生きているのは同じではないか。 


寿命を感じたとき、

やり残したことや、

やり直したいことが多くある

から焦るのではないか。


その根源は、

自分の中に隠されている

気がしてならない。 


 人に見せる自分と、

自分しか知らない自分は

誰にでもある。


だが、一度きりの人生に

生まれた以上、まずは

自分に素直になること。


そして「学び」である。


学ぶことは寿命が

尽きるまで続く。


しかし、

学ぶ心を持たなければ、

学べないことの方が多い。 


 何が悲しく、何が正解か。


それを誰が決め、

誰が採点するというのか。


自分が幸せでなければ、

すべてに意味はない。


幸せを見つけられない自分は、

どこか間違ってはいないだろうか。 


 人に大差はない。


差があると思うのは、

自分の魂が未熟だからだと

感じてほしい。


 死にゆくことは、

決して特別なことではない。 


いかに生きたか


すべてはその一点に

尽きると感じる。



本音で話している僧侶を
見つけました。 

なかなか
ココまで本当のことを
話す方はいないと思います。

もちろん、ここまで話すと
敵も多いでしようが
頑張ってほしいと思いました。

裏表がない気がします。
他の動画も興味深いです。

大昔の志の高い高僧たちと
会話してきた私としては
現在との大きな温度差を
常々、感じていたことです。

しかし会話したのも本当のこと
ですから、どうしても
それを基準に見てしまう。

この動画をみて
胸につかえていたものが
取れた気がしました。

最近、人と人の

コミュニケーションが

希薄になっていると

感じることはありませんか?



AIの進化に伴い、

その傾向がさらに

加速しているような

気がしてなりません。


先日、

ある番組で紹介されていた

エピソードに

衝撃を受けました。


小学生の俳句コンクールで、

5人の子供が

賞を受賞した際の話です。


そのうちの一人の親御さんは、

我が子が片時も

スマホを離さず、

ゲームやAIチャットに

没頭している姿を

ずっと心配していました。


そんな中での受賞。


しかし、

蓋を開けてみれば、

驚くべき事実が判明したのです。


なんと、

受賞した5人のうち3人が、

まったく同じ俳句を

提出していました。

(個人的には賞をだす側にも

問題ありだと思いましたが)


原因を調べると、

学校の課題をAIチャットに

丸投げして作った

句だったそうです。


「これは実力でもなければ、

  フェアでもない」


安易に答えを手に入れて

しまった子供たちの姿に、

私は複雑な思いを抱きました。


また、

ある成人された方の言葉は…


その方は、

幼い頃から対人関係が

少し苦手だったといいます。


親が遺した遺産を元手に

仕事を辞め、現在は投資で

生活をされています。


心配する親御さんに対し、

その方は

こう言い放ったそうです。


「リアルな友人はいないけれど、

  寂しくはない」


その背景には、

AIとの対話があるのかも

しれません。


AIは基本的に、

質問者を肯定し、

寄り添うような

答えを返してくれます。


厳しい意見や否定的な

答えが返ってこない世界。


その心地よさに、

依存してしまう大人も

増えているようです。



しかし、

ここに大きな落とし穴が

ある気がしてなりません。


2024年11月 石村嘉成展 


本来、人と人との付き合い

というのは、

少々嫌な思いをしたり、

ぶつかり合ったりするものです。


ですが、

その摩擦があるからこそ、

私たちは相手の痛みを想像し、

自分を省みるという

「大切なこと」

を学べるのではないでしょうか。


幼い頃からAIだけを相手にし、

それが当たり前に

なってしまえば、

自分のことを客観的に見て、

時には耳の痛い意見を

伝えてくれる

「生身の人間」の存在が、

どれほど貴重で親身なものか

さえ、分からなくなって

しまいます。


AIの進化は止まることなく、

世の中はどんどん

便利になります。


その反面、私たちは

「不得意なもの」や

「面倒な人間関係」

から要領よく逃げる癖を

身につけてしまっている

のかもしれません。


人としてのバランスが

育まれる土壌が、

失われつつある現代。


ずる賢く立ち回ることで、

本当の友人や、

納得のいく生き方に

巡り会えるのでしょうか。


混沌とした世の中で、

私たちは本当の意味での

幸福を感じて

生きていけるのでしょうか。


便利さと引き換えに、

私たちが手放そうとしているものの大きさを、

今一度考え直す必要が

ある気がしてなりません。


2024年11月 石村嘉成展

AmazonPrimeの韓国映画で

『悪魔を見た』という

衝撃的な映画を見つけました。


 この映画は、

怨霊となる人々の気持ちが

深く理解できる作品です。 


 殺しても殺しても

許せないという、複雑な

感情を見事に表現しています。





 私の前に突如として

「霊」が現れた当初、

私はそれを邪悪なもの

とみなし、自らの魂が

汚れることを避けて、

霊が何を言おうが一切

会話をしませんでした。


しかし、

憑依されている人間にとっては、霊の痛みや思いが

一気に襲いかかり、

体に負担がかかる。


呼吸や鼓動なども

荒くなり本当に苦しいのです。

その苦しそうな表情を見て、

私は一刻も早く

処置したいという思いから、

仕方なく会話に

応じるようになりました。


そして、

自分の力がどれほどのものかも

分からぬまま、○○の中の

仏の力を使って

追い詰めていきました。

何があってその霊が

そのようになったのか

経緯を聞くこともせず、

力でねじ伏せて

強制送還するという方法を

とっていました。

要は

「死ねばさっさと上がれ」

という気持ちからでした。

しかし、ある時、

その魂たちを一気に

藻屑にしてしまうという

出来事がありました。


それは意図したわけではなく、

自分の力の限度を

把握できていなかった

結果でした。


私は3日ほど落ち込みました。


これは「死刑」よりも

酷いことです。


もうチリとなってしまった

それらは、

反省するチャンスも、

再生することも

永遠にないのですから。

それ以来、

私は現れた魂と深く

話すことにしました。

なぜ、そうなったのか?
何を思い、

生きている人間に

害を及ぼうとするのか?


そんな中で、

相談者の前世の行いが

人として許せないほどの

残酷な出来事なども知ることに

なり悪霊に同情することも

ありました…


「いったい私は何を

  救おうとしているのか…」


どちらを救っているのかも

分からなくなります。


しかし、根本的な問題を

解決するには不浄霊の魂を

救わなければ前には

進めないのです。

魂を天に送る際は、

悪行を行った者には

必ず懺悔させ、

悔い改めさせる。

そうした手順を

踏むようになり、

今に至っています。

怨霊になった魂に対しても、

癒してやり、

言い聞かせてあげることが

正解でした。

ただし、

あまりにも罪深い場合

(特に神仏に仕えていた者や、

 呪術などを悪用した者)は、

藻屑にすることすら

できないようで……

苦肉の策として、

六道の畜生界に

落とすことにしました。

戦っている最中にも

常に試行錯誤していますが、

不思議と

「こうすればできる」

という確信めいたものが私には

あるのです。

例えば、
○○の悪弟子は豚に。


○○大社の○○○○の

手下など悪行を行った

者たちはウシガエルに。


鬼畜界に落としたのです。


まるでアニメの世界のような

話ですが、このような時は

必ず第三者、また付き添う人

と一緒に体験することとなり、


嫌でも魂の世界が本当にあるのだ

という信じられない事実を

知ることになります。


ましてや変貌した人は自らの

親しい人間なのですから

疑う余地もないのです。





このような体験から、

生前に呪術を悪用したモノや

あまりにも罪深いことを

したモノが出てくると


「鬼畜に落ちたいか?!」


と言うとほとんどは


「それだけは嫌だ…」


と尻込みするように

なりました。


どうも霊たちは私のこれまで

おこなってきた事が

走馬灯のように一瞬で

見えるようです。


私が鬼畜界に落とす力が

あることの証左でもあります。



この有名な○○大社の

モノたちとの戦いは

○○の悪弟子との

ことよりも根が深く複雑で

関わた人たちも多く…


この時の戦いの様子は

動画にも全て残しました。

勿論、悪霊との会話も全て。


最後の対決までに

大河ドラマのような

時代の大きなうねりや、

権力争いなどが隠れており

それらは徐々に姿を

現しました。


遠方の縁も所縁もないはずの

人と人とが

前世で繋がっていたり、

その中で裏切りがあったり…


結論的には最初からだと

おおかた10年越しでの

全貌でした。


歴史の裏に隠された

真実の出来事…でした。




鬼畜界に落ちた彼らが

人間として

輪廻転生することは、

よほどでない限り

あり得ません。

ともかく、

霊障が起こるのには

必ず何らかの原因があります。

何もないのに

起こりえることはないのです。


生きている人間の一方的な

味方になるのは違うと感じ、

今のスタンスになりました。

そのためには、

祟り霊の供養と、

本人(生きている人間)

の至らぬ点の反省も

必要となります。

私のこのスタンスは、

何らかの宗教と

よく勘違いされます。

しかし、
そうではありません。


生きている人間も

同じですが、

記憶があるないに関わらず、

恨みの霊が憑いている

ということは、

それなりの要因が本人にも

あるということなのです。

そして、
そのような体質になるのも

「類は友を呼ぶ」

という現象です。


これを私は体験から

学びました。


本人の本質的な部分や

一族の祟りなどから

邪悪な霊を呼び込みやすく

なるのです。

そのような人の多くは、

自分を冷静に

見つめることもせず、

何らかに責任転換する人が

ほとんどでした。


だから進歩することもなく、

同じようなことを

繰り返すことになるのです。

魂の世界は、

輪廻転生して過去生のことは

忘れたなんて

甘い世界ではないようです。


やられた方は時間が止まり

永遠と覚えており悔しく

辛い思いを募らせているのです。


心の奥底まで全て

お見通しの世界。


人間同士のような小手先の

誤魔化しなど通用しないのです。


目に見えない世界

ということで巷のオカルトや、

除霊というものが

いい加減だということを

声を大にして言いたいです。


学ぶ心もなく興味本位で

覗く世界ではないのです。。。


供養する力もないのに

心霊スポットに行くなど…

下手をすると先の人生を

狂わせられるかも

しれないのに。。。


本当の怖さを知らない…

愚かとしか

言いようがありません。



臨死体験とは、
あくまで死の淵に触れた
体験であり、厳密な意味での
死後の世界
そのものではありません。
生還したという事実こそが、
その証左といえます。 

肉体の死と魂の存続は、
全くの別物です。

私の経験から導き出した
結論は、
人の一生とは、
 魂が積み重ねる膨大な
 経験の断片に過ぎない

ということです。

死とは、肉体という名の
「着ぐるみ」を脱ぎ捨てる
だけの現象なのです。

これは単なるオカルトや
宗教の枠に
収まる話ではありません。

私の目の前で起きた
厳然たる事実です。

クライアントの記憶が
曖昧であったり、
全く残っていなかったり
することもあるため、
現在ではその様子を
録画・録音し、
客観的な記録として
残しています。

私が「病の改善」を
証明の手立てとしたのは、
それ以外に
真実を裏付ける方法がない
と考えたからです。

実際に、
病状の数値改善という
目に見える結果も
積み上げてきました。

私は、自分の目の前で
起こったこと以外は
信用しないと決めています。

一方で、突き詰めても
分からないことは
あえて追及しません。
それもいつか
「結果」として理解できる
時が来ることを、経験から
知っているからです。

信じようと信じまいと、
これは私が実際に経験した
事実です。

ある時に突然、
人の身体を完全に眠らせ、
その声帯を借りて現れた
「千年以上前の高僧の魂」
と、約二年間にわたり私は
対話を続けました。

その一部の会話は
に記載しました。

その後も、望むと望まざる
とにかかわらず
死者との対話が始まり、
今日までに
数えきれないほどの魂と
言葉を交わしながら
問題を解決してもきました。
それらは結果として
証左できるものでした。

そして
魂の世界には何層にも
分かれている世界があり、
その景色も違うということも
知りました。



出所の不確かなチャネリングや
宗教的教義、
あるいは医学的な処方よりも、
現場主義で導き出された
結果」こそがすべて
であると私は確信しています。

では、
私たちは何を行えば
良いのでしょうか。

実は、答えは
至ってシンプルなのです。

【自分がされて嫌なことは、
    人にもしない】

要は、
必要以上に人を傷つけない
ことなのです。

これは、
輪廻転生の中で
自分の行った罪は
ブーメランのように必ず
自らに反ってくるという
ルールのようなものがある
からでもあります。

毎日を今日が人生最後の日
かもしれないという覚悟で、
一日一日を懸命に生きること。

そう思えば、
人との出会い一つひとつが

「今生で会える最後
   かもしれない」

という重みを持ち、
少々のいさかいなどは
許せてしまうはずです。

寝る前には、
自分や大切な人が
今日という一日を無事に
過ごせたことに感謝する。

もしも、後悔するような
言動があれば、心の中で素直に
「ごめんなさい」
と反省する。

そうすることで、翌朝には
また清らかな気持ちで
心のスイッチを
入れることができます。

これこそが、
肉体を持つ人間としての
真の哲学であり、
後悔のない終焉を
迎えるための
唯一の道であると
私は確信しています。