ワシらは寺までも建てて
証ではないのか。
私の初版本を読んだという
当初は本気だったのだろう。
それもそのはずだ。
例えば、軽自動車が普通車に
次回、彼らが新たに
未来への不安よりも、
昨年のお話です
以前ご紹介した、
ご自身の体験談を記録として
ブログに
残されている方。
医学的な観点から、
少しずつの体の変化や
数値の変化をアップされました。
どんなに宗教などにおいて
立派な立場や肩書き、
特別な力を持っていると
自負していても……
自らが病を抱えていたり、
家族が奇妙な病を
患っていたり、、、
子は親の背中を見て育ちますから親がブレブレだと子供は
情緒不安定になっています。
そんなことは、
地に足をつけ 自らを
俯瞰して真実のみを見、
また真の力を
持っているならば、
あり得ないことです。
結果が出なければ、
単なる【自惚れ】
と言われても
仕方がありません……
何の意味もない、
所詮は
自己満足の妄想といえます。
特に、
医学的な限界にある病の場合、
本人や家族は
どんな方法であれ、
良くなればそれで良いと
考えます。
もちろん、
生活習慣や食生活の影響も
あるとはいえ、
病になるということには、
寿命でない限り、
それなりに
深い意味があるのです。
様々な角度から考察し、
全体を観察しながら、
その時々での正確な判断を
していくことが重要になります。
まるっきり同じ
というこはないので
すべては、マンツーマン
(一対一の対話)
です。
浮浄霊などを一時的に弾く
だけでなく、本当に
成仏させる力があるのなら、
少々の体調不良など、
瞬時に治せるはずなのです。
これができて、
あれができない、
ということはないはずなのです。
宗教を含め、オカルトや
スビ系のいい加減な
情報が蔓延している現状は、
嘆かわしいことだと
つくづく感じます。。。
https://ameblo.jp/tennoito/entry-12411349810.html

疲れました…
ホトホト。。。
自分一人でクリアしたと
勘違い…
私がそのほとんどをクリアして
せっかく回避したのに...
死んでしまうかもしれない…
狂ってしまうかもしれない…
その思いはいったい何処に
いってしまったのでしょうか…
あのすがるような瞳と
涙はなんだったのでしょうか…
それすら忘れて…
理解できない?
しようとしない?人間は
同じことを繰り返す。。。
憑依体質が治るはずもありません
上には上がきますから…
いずれは病になるか、
家族に飛び火するか、
連れていかれるか…
そんなことも何度も
話しているのに。。。
ある意味これは
いい加減な嘘つきを見抜く
基準になるかと思います
本人は繕って誤魔化しても
子供はブレますよ必ずね
子供のいない人には
申し訳ないのですが、
どのようなことでも
体験から学ぶことほど身につく
ことはないのです
スピ系や個人的な感覚を
結果もなく言い切る人は
妄想であることを
疑うべきなんです
(健全な魂=健全な体)
そうであるのが当たり前
普通なんです
そうでない人の発言は
妄想癖・自意識過剰としか
いいようがありません…
私が本人を守るために
様々なことをアドバイス、
伝授しても
それも個々の顔が違うように
同じということもなく…
タイミングも違いますし、
浮上してきた問題に
対してのアドバイスも
違うのです
人生や環境が全て同じ
ということは
ありませんからね
そして、
私のアイテムは私なんです
輪廻転生の中で
積み上げないと出来ない
仕組みがあるということを
いくら証拠提示して
話しても話しても、
憑依体験していても
肝心なことに気がついてない…
自分の足元が見えていないのです
口では嫌といいながら結局は
不思議ちゃんの(お好きな人)
逝けば分かりますとも
自分のバカさ加減が。。。
すでに私も情に絆されず人を
選ばなければなりません
時間の無駄ですから
浮上霊や悪霊よりも
生きている人間のほうが
私にはよほど怖いと感じます
どうなろうが
私にはもう関係ない…

ここ数年のあいだ
お墓のご相談が増えました。
その背景には、
皆さんの先々への不安が
あるのだと思います。
近年「寺離れ」の加速が
指摘されており、
長年培われてきた伝統や
寺院ごとの形式を急に変えるのは難しいのが現状でしょう。
ですが、死は万人に等しく
訪れるものです。
孤立無援で旅立つ人
ばかりではなく、
多くの場合は遺族が
その後に残されます。
だからこそ、
大切なのは宗教の壁を
超えることです。

人として故人に対する
本当の意味での尊厳や
感謝の念があれば、
どのような見送りの形であっても、故人はきっと受け入れ、
満足してくれるはずです。
どのような供養の形をとるにせよ、人間はだれしも
「因果応報」
という言葉の通り、
自らの行いの報いから
逃れることはできないのだと
強く感じます。
ただ、これまで私の目の前で
おこった不浄霊との会話の中に
先祖からは「怒り」ともとれる
訴えのほとんどは、
お墓の放置によるものでした。
それらは浄土へ逝けていない
故人自身の因果の現れでも
ありますが、私には切ない
嘆きにも聞こえました。
「生前のお前は、
逝ってしまった人間の苦しみを
和らげるために、心を込めて
供養をおこなったか?」
私がそう投げかけたとき、
返答は生前に気付くことの
できなかった後悔の念から
にじみ出る言葉か、
あるいは
開き直りの怒りの言葉か、
ほとんどがそのどちらかでした。
せめて、お世話になった
身近な人への供養はなされる
べきことなのです。
世話になりっぱなしで
「ありがとう」の言葉すら
感じないのは、
人としての道徳を欠いていると
言わざるを得ません。
形式だけの法要などではなく、
まずは真心を添えることが
一番大切なことなのです。
自分が亡くなったときを
想像してみてください。
例えば、
見ず知らずの僧侶があげる
立派なお経よりも、
自分の子や孫のつたない
お経のほうが余程
嬉しくはありませんか?
元来の供養とは、
そういうものなのです。
真剣に思考すれば
わかることなのでけれどね。。。