AmazonPrimeの韓国映画で

『悪魔を見た』という

衝撃的な映画を見つけました。


 この映画は、

怨霊となる人々の気持ちが

深く理解できる作品です。 


 殺しても殺しても

許せないという、複雑な

感情を見事に表現しています。





 私の前に突如として

「霊」が現れた当初、

私はそれを邪悪なもの

とみなし、自らの魂が

汚れることを避けて、

霊が何を言おうが一切

会話をしませんでした。


しかし、

憑依されている人間にとっては、霊の痛みや思いが

一気に襲いかかり、

体に負担がかかる。


呼吸や鼓動なども

荒くなり本当に苦しいのです。

その苦しそうな表情を見て、

私は一刻も早く

処置したいという思いから、

仕方なく会話に

応じるようになりました。


そして、

自分の力がどれほどのものかも

分からぬまま、○○の中の

仏の力を使って

追い詰めていきました。

何があってその霊が

そのようになったのか

経緯を聞くこともせず、

力でねじ伏せて

強制送還するという方法を

とっていました。

要は

「死ねばさっさと上がれ」

という気持ちからでした。

しかし、ある時、

その魂たちを一気に

藻屑にしてしまうという

出来事がありました。


それは意図したわけではなく、

自分の力の限度を

把握できていなかった

結果でした。


私は3日ほど落ち込みました。


これは「死刑」よりも

酷いことです。


もうチリとなってしまった

それらは、

反省するチャンスも、

再生することも

永遠にないのですから。

それ以来、

私は現れた魂と深く

話すことにしました。

なぜ、そうなったのか?
何を思い、

生きている人間に

害を及ぼうとするのか?


そんな中で、

相談者の前世の行いが

人として許せないほどの

残酷な出来事なども知ることに

なり悪霊に同情することも

ありました…


「いったい私は何を

  救おうとしているのか…」


どちらを救っているのかも

分からなくなります。


しかし、根本的な問題を

解決するには不浄霊の魂を

救わなければ前には

進めないのです。

魂を天に送る際は、

悪行を行った者には

必ず懺悔させ、

悔い改めさせる。

そうした手順を

踏むようになり、

今に至っています。

怨霊になった魂に対しても、

癒してやり、

言い聞かせてあげることが

正解でした。

ただし、

あまりにも罪深い場合

(特に神仏に仕えていた者や、

 呪術などを悪用した者)は、

藻屑にすることすら

できないようで……

苦肉の策として、

六道の畜生界に

落とすことにしました。

戦っている最中にも

常に試行錯誤していますが、

不思議と

「こうすればできる」

という確信めいたものが私には

あるのです。

例えば、
○○の悪弟子は豚に。


○○大社の○○○○の

手下など悪行を行った

者たちはウシガエルに。


鬼畜界に落としたのです。


まるでアニメの世界のような

話ですが、このような時は

必ず第三者、また付き添う人

と一緒に体験することとなり、


嫌でも魂の世界が本当にあるのだ

という信じられない事実を

さ知ることになります。


ましてや変貌した人は自らの

親しい人間なのですから。

疑う余地もないのです。





このような体験から、

生前に呪術を悪用したモノや

あまりにも罪深いことを

したモノが出てくると


「鬼畜に落ちたいか?!」


と言うとほとんどは


「それだけは嫌だ…」


と尻込みするように

なりました。


どうも霊たちは私のこれまで

おこなってきた事が

走馬灯のように一瞬で

見えるようです。


私が鬼畜界に落とす力が

あることの証左でもあります。



この有名な○○大社の

モノたちとの戦いは

○○の悪弟子との

ことよりも根が深く複雑で

関わた人たちも多く…


この時の戦いの様子は

動画にも全て残しました。

勿論、悪霊との会話も全て。


最後の対決までに

大河ドラマのような

時代の大きなうねりや、

権力争いなどが隠れており

それらは徐々に姿を

現しました。


遠方の縁も所縁もないはずの

人と人とが

前世で繋がっていたり、

その中で裏切りがあったり…


結論的には最初からだと

おおかた10年越しでの

全貌でした。


歴史の裏に隠された

真実の出来事…でした。




鬼畜界に落ちた彼らが

人間として

輪廻転生することは、

よほどでない限り

あり得ません。

ともかく、

霊障が起こるのには

必ず何らかの原因があります。

何もないのに

起こりえることはないのです。


生きている人間の一方的な

味方になるのは違うと感じ、

今のスタンスになりました。

そのためには、

祟り霊の供養と、

本人(生きている人間)

の至らぬ点の反省も

必要となります。

私のこのスタンスは、

何らかの宗教と

よく勘違いされます。

しかし、
そうではありません。


生きている人間も

同じですが、

記憶があるないに関わらず、

恨みの霊が憑いている

ということは、

それなりの要因が本人にも

あるということなのです。

そして、
そのような体質になるのも

「類は友を呼ぶ」

という現象です。


これを私は体験から

学びました。


本人の本質的な部分や

一族の祟りなどから

邪悪な霊を呼び込みやすく

なるのです。

そのような人の多くは、

自分を冷静に

見つめることもせず、

何らかに責任転換する人が

ほとんどでした。


だから進歩することもなく、

同じようなことを

繰り返すことになるのです。

魂の世界は、

輪廻転生して過去生のことは

忘れたなんて

甘い世界ではないようです。


やられた方は時間が止まり

永遠と覚えており悔しく

辛い思いを募らせているのです。


心の奥底まで全て

お見通しの世界。


人間同士のような小手先の

誤魔化しなど通用しないのです。


目に見えない世界

ということで巷のオカルトや、

除霊というものが

いい加減だということを

声を大にして言いたいです。


学ぶ心もなく興味本位で

覗く世界ではないのです。。。


供養する力もないのに

心霊スポットに行くなど…

下手をすると先の人生を

狂わせられるかも

しれないのに。。。


本当の怖さを知らない…

愚かとしか

言いようがありません。



臨死体験とは、
あくまで死の淵に触れた
体験であり、厳密な意味での
死後の世界
そのものではありません。
生還したという事実こそが、
その証左といえます。 

肉体の死と魂の存続は、
全くの別物です。

私の経験から導き出した
結論は、
人の一生とは、
 魂が積み重ねる膨大な
 経験の断片に過ぎない

ということです。

死とは、肉体という名の
「着ぐるみ」を脱ぎ捨てる
だけの現象なのです。

これは単なるオカルトや
宗教の枠に
収まる話ではありません。

私の目の前で起きた
厳然たる事実です。

クライアントの記憶が
曖昧であったり、
全く残っていなかったり
することもあるため、
現在ではその様子を
録画・録音し、
客観的な記録として
残しています。

私が「病の改善」を
証明の手立てとしたのは、
それ以外に
真実を裏付ける方法がない
と考えたからです。

実際に、
病状の数値改善という
目に見える結果も
積み上げてきました。

私は、自分の目の前で
起こったこと以外は
信用しないと決めています。

一方で、突き詰めても
分からないことは
あえて追及しません。
それもいつか
「結果」として理解できる
時が来ることを、経験から
知っているからです。

信じようと信じまいと、
これは私が実際に経験した
事実です。

ある時に突然、
人の身体を完全に眠らせ、
その声帯を借りて現れた
「千年以上前の高僧の魂」
と、約二年間にわたり私は
対話を続けました。

その一部の会話は
に記載しました。

その後も、望むと望まざる
とにかかわらず
死者との対話が始まり、
今日までに
数えきれないほどの魂と
言葉を交わしながら
問題を解決してもきました。
それらは結果として
証左できるものでした。

そして
魂の世界には何層にも
分かれている世界があり、
その景色も違うということも
知りました。



出所の不確かなチャネリングや
宗教的教義、
あるいは医学的な処方よりも、
現場主義で導き出された
結果」こそがすべて
であると私は確信しています。

では、
私たちは何を行えば
良いのでしょうか。

実は、答えは
至ってシンプルなのです。

【自分がされて嫌なことは、
    人にもしない】

要は、
必要以上に人を傷つけない
ことなのです。

これは、
輪廻転生の中で
自分の行った罪は
ブーメランのように必ず
自らに反ってくるという
ルールのようなものがある
からでもあります。

毎日を今日が人生最後の日
かもしれないという覚悟で、
一日一日を懸命に生きること。

そう思えば、
人との出会い一つひとつが

「今生で会える最後
   かもしれない」

という重みを持ち、
少々のいさかいなどは
許せてしまうはずです。

寝る前には、
自分や大切な人が
今日という一日を無事に
過ごせたことに感謝する。

もしも、後悔するような
言動があれば、心の中で素直に
「ごめんなさい」
と反省する。

そうすることで、翌朝には
また清らかな気持ちで
心のスイッチを
入れることができます。

これこそが、
肉体を持つ人間としての
真の哲学であり、
後悔のない終焉を
迎えるための
唯一の道であると
私は確信しています。

新しい年を迎え、
改めて志を胸に刻んだ
年頭でした。

国内のみならず、
世界中で地震や山火事が
起こっています。

ネットを開けば、
政治や経済の不安定なニュースが溢れています。

そんな時こそ、
曖昧な出所不明な予言や
スピリチュアルな言葉に
惑わされず、
地に足をつけて生きてください。

基本は、
何よりも「自分」です!

天変地異や戦争など、
不安を煽る情報を鵜呑みに
しないこと。

毎日を大切にし、
小さな幸せを感じて生きること。

その積み重ねが、
結果として大きな幸せに
繋がるのです。


形あるものは、いずれ朽ちる。
そして次に紡いでゆくのです。

その覚悟を持って生きることが、何よりも大切です。

「当たり前の日常」
を慈しみ、
「当たり前の感性」
を信じること。

それは、
妙な霊感などよりも、
はるかに価値があるもの
なのです。

動物と人間の共通語は

ありません 。


しかし… 

ペットである犬や猫など、

その間にコミュニケーションが 

生まれたときに互いの 

意思疎通ができるようになります。

  

それは、 

恐怖や恐れを感じた時、 

悲しい時、 

嬉しい時、

感情を伝えたい時には 

全身全霊の表現で懸命に

訴えてきます。


深い信頼関係ができた時には 

甘えからくる

わがままを見せることもあります。


 所詮、 

種を越えたコミュニケーション 

選べる手段など

わずかなものかもしれません。



 しかし…

 対「人間「となると 

なぜに、

こんなにも心を通わせることが

難しくなるのでしょうか… 


誰もが同じ気持ちでいられたら

どんなに楽であろうか。


人間は哺乳類の中でもっとも

優れているようでいて

 実は一番厄介な

 動物なのかもしれませんね。。。



🎄✨Merry Christmas⛄🎄✨


負のエネルギーに

負けそうな時は、

(一日一膳)でなく(一日三膳)

をやってみて下さい


 見知らぬ他人に

優しくすることは

自分の最高の糧になります


 人には誰しもバイオリズム

というものがあります


 利害関係のない他人に

優しくすることほど

自分を幸せにし、

進歩や進化を促すことは、

ありません


 計算している間は(損得勘定)

何も変わらないのです




 昨夜は

「自由」と「わがまま」の違いを

お話しました


 国によって、

文化の違いはあっても

流れる血は同じで赤く

体の痛みも同じです


 他人の気持ちを

理解しようとしない人に

進歩はないのです


             2019年7月

ある人が言いました。

「なぜプロフィールを
     出さないのか?」
「なぜ顔を出さないのか?」


はい、お答えします。

SNSでの集客も

求めていないのに

プロフィールを出して、
何の意味があるのでしょうか?

「えっ!?」
というくらいの信じられない
ような驚きのエピソードなら、
実はいくらでもあります。
またそれらも
今現在も進行中なんです。

インターネットの中には
よく見かける
「上手くいった出来事だけ」
を発信する人たち。

いえいえ、私はこれまで
いつも、
どうなるか分からない
状態から実況中継し、
結果を出してきました。

それらは、
古いお付き合いの方々は皆、
周知のことです。

なぜ顔を出さないのか?

逆に、顔を出して
何の意味があるのかが、
私には分からない。
特別不細工なわけでもなく、
特殊な服装をしているわけでも
ない私です。

初めてお会いした人は
口を揃えて、
「イメージと違いました」
と言われてしまいます。

私が有名になりたいとか、
お金や権力が欲しいのであれば、
今のスタンスを選びません。

誰かさんのように
一時的に芸能人をやり、
政治家になったり、
または商売を始めたりと、
もっと近道を選びますよ。
馬鹿ではないのだから。

それに、ごく普通の生活を
維持したいのです。
私にも守る者はいますからね。


SNSにAIが参入し、
どのジャンルも偽物が
本物と認知されてしまう現代。

しかし……
真理は多数決ではありません。

体験から得た出来事しか
信用しない私は、
このスタンスを崩す気持ちも
ありません。

私はこれまで、
自惚れることもなく…
生活が崩れかけても
挑んできました。
半端な気持ちで戦いに臨み、
今を生きて過ごせてきたのでは
ありません。

見えない世界は想像するほど
メルヘンやオカルト話の
ような生ぬるい生半可な
気持ちで勝ち続けることなど
できないです。

ブログを続けているのは
ただ…
真実の世界を広めたいことと、
コメントすらもできない
相談者へに向けての意向と
アドバイスのためなのです。

しかし...
これも何時やめても
おかしくありません。

私には何のメリットも
ないのですから...


生まれた以上、
皆いつかは逝きます。

信じようが信じまいが、
死後の世界は
確かに存在するのです。


浄土へ逝ければ良いのですが、
今は中々そうもいかない
「蜘蛛の糸」状態。

現世への執着や悪縁に
足を引っ張られ、
行くに行けなくなるようです。

望まぬ世界へと
引き込まれてしまう。

先祖供養や三界萬霊供養が
足りなければ、
そうなるのかもしれません。


体が滅んでしまえば、
生きている時のようには
いきません。

時間も止まったかのように
感じられるでしょう。


理屈では、
本当の幸せは味わえません。
全ては自らが経験してこそ
得られるものです。

輪廻転生し、
記憶がリセットされるのも、
きっと試されているから。

同じような壁が目の前に現れ、
それを自分がどのように捉え、
乗り越えるか。

それにかかっています。

過去の記憶や後悔が、
亡くなった後もまた襲ってくる。

その記憶が、
生きている人には幻聴のように
聞こえることもあるようです。

越えなければならない
課題(誘惑)は、
越えるまで何度でも現れます。

その数が多ければ、
導いてくれる先祖の「質」も
落ちる(影響力が弱まる)ようです。
ますます課題を越えにくくなる
のかもしれませんね。

これは、
様々な経験を通して得た答えです。

「てんのいと」の本を1、2回ほど読んで理解したと思っている人ほど、
実は本当の意味で理解していない。

これは周知の事実です。



死ぬような目にあっても、
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」
という人も多いと感じています。

何度話しても、
本気で耳を傾け、
真剣に考えようとしなければ、
見えない世界の真理は
理解できないでしょう。

ましてや目に見えない世界ですし、いい加減な情報や輩も
蔓延していますから。

どうせ皆、いずれは逝く運命。

結果は全て、
自らに降りかかるだけです。

一日一生。


A
ご質問がありましたので
お答えします。


心霊スポットに行った際、
もしも本当に
そこに未練や恨みを残した
不浄霊がいたとしたら…

霊も生きた人間と同じで、
もし自分と「気が合う」
(タイプが似ているなど)
人であれば、
形のなくなった自分を
分かってほしいと寄ってくる
可能性があります。

また不浄霊がいたとしたら
決して機嫌のよい状態では
ありませんから、
見知らぬ人がドカドカと入って
来たら貴方ならどう感じますか?

不浄霊も身体がないだけで
生きた人間と感情は変わらない。

肉体を持つ私たちも同様ですが、
あまりにもタイプの違う人間とは
コミュニケーションをとりたいとは
思わないです。

また、
そんな風に身体に入り込まれると、何らかの体調不良が起こります。

しかし、
個人的に根深い恨みを
持たれていなければ、
深く憑依(ひょうい)されること
なく、
うわずらわしいようなことを
すれば離れていくと思いますよ。

それが世に言う
「お祓い」や「除霊」
といったものです。

もっとも、

本にも記載した通り、希に


「だれでも良いから

  生きている人間を祟ってやる」


という不浄霊もいます。


ですから、

心霊スポットといわれる場所には

興味本位で行くべきではない

でしょう。


供養をしてあげるという目的であれば、少し話は別ですが。

さて、それが本当にできるかな?




校正ポイント:


私の話を人にした際、
「それって何かの宗教だよね」

と悲しいことに誤解されることが
よくあります。

書籍やブログでも
繰り返し説明していますが、

私の基本となっている考え方は、
難しい教義ではなく、
実はとてもシンプルです。


人間としての
道徳や哲学的な思考が根底にあり、

誰もが生まれ、
そしていつかは死を迎えるという
事実があります。

身体がなくなった後に残るのは、
本人の持つ想念(あるいは魂)
である、という認識です。

これは単なるオカルトや
巷のスピリチュアルの話では
ありません。

また、
著名人や師匠と呼ばれる人物の
言葉を鵜呑みにしたり、
書物からの引用知識を
基本にしているわけでも
ありません。



全ては目の前の現実から得た
結論であり、
真実に近いと確信しています。

歴史の改ざんや前世といった、
常識では考えられない事実にも
直面しました。

文献のいい加減さを知り、
「歴史は勝者のもの」

という言葉を裏付ける経験でした。

当初は信じられなくても、
接点のなかったはずの
点と点が繋がり、
物理現象や体調変化といった
疑いようのない結果が現れます。

当の本人の意識が無い時や
朦朧としていることを考え、
後に
録音・録画したものを一緒に
検証することは当然なことだと
考えています。

私は、未経験の事柄や
理解できない現象に対しては、
相談者へのインタビューや
考察を通じて原因を特定します。

根本解決を目指し、
実践的なアプローチで結果を
追求します。

解決手段として
宗教的な要素を用いることも
ありますが、
それは多様な方法の一つに
過ぎません。

個々のケースに合わせて
柔軟に対応しており、
決して固定的な手法では
ありません。

結果を最優先するためには、
複数のアプローチが必要です。

なぜなら、
問題の原因の多くは、
最終的に本人自身にあると
知ったからです。

ここに難しさがあるのです…



本の中にも書きましたが、

近頃、よく感じることが

あの世とこの世の重なりが

深くなっていること。 





 また

私に関しては 

これまで以上に電子機器や

電化製品が壊れやすくなりました

 

先日は二つの掃除機を

充電しようとしたら

同時に壊れたようで

充電出来ず…そのままの状態、。

多分、壊れてしまったのだと

思います


パソコンが壊れるよりは

掃除機で良かったですが…


少々な不思議な出来事も

日常茶飯事なので

馴れてしまいましたが、

困ったものです、、。


そして

今日は思うところがあり

折り紙で蝶々を作っていたら… 


またハサミが磁石になって

しまいました 

(以前はコロナ化の時にマスクを

作っていたら裁ち鋏が磁石化。

これはYouTube動画に

残しています)


本当にどーなってるのやら…


ハサミが磁石になることは

可視化出来るので

理解しやすいですよね… 


しかし、

私のおこなっていることは

もっと、もっと

複雑で恐ろしいことなのですけれど身に降りかかっている当の本人でも

中々理解できないようで、。


いっそのこと

超能力を磨いたほうが早いのかな?

笑うしかない出来事でした