★このブログは2012年に掲載した
記事を2015年5月に再度編集したものです。
少しだけ加筆しました★
訓練中のアメリカ海兵隊MV-22
オスプレイがオアフ島の空軍基地で
着陸に失敗し乗員が死亡した事故が
報道されたのは2015年
岩国基地から普天間基地へ
飛行するオスプレイの映像が
報道されたのは2012年10月に入ったばかりの頃*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
最初に普天間へ飛来したのは6機
最終的に12機が配備された (-。-;)
★軍用機 通称オスプレイOsprey★
正式機名はV-22d( ̄  ̄)
アメリカ合衆国のベル・ヘリコプター社と
ボーイング・ロータークラフト・システムズ
(旧 ボーイング・バートル社)が共同で開発
回転翼の角度が変更できるティルトローター方式の
垂直離着陸機輸送機
ヘリコプターは垂直に離着陸が出来る
ホバリング(空中停止)も可能なことから
超低空での地形追従飛行が可能だけど速度が遅く
航続距離も短い φ(・ω・。)
固定翼機は高速移動や航続距離で
優れているものの離着陸のために
長い滑走路が必須
垂直離着陸もホバリングも超低空での
地形追従飛行も出来ないφ(。_。*)
米軍は第二次世界大戦直後から
両者の利点を併せ持つ航空機を探していた
“「(・_・ )(「・_・)”
★垂直離着陸
★ホバリング(空中停止)
★超低空での地形追従飛行が可能
★高速移動ができかつ長い航続距離が可能
米軍が求め続けた軍用機
それがオスプレイなのらしい
安全性には不安がある
配備後 2006年から2011年の間に
58件の事故が起こっている ( ̄_ ̄ i)
★緊急着陸して給油中
エンジンの排気熱で草地に引火ヾ( ̄o ̄;)
★夜間 着陸に失敗し横転
★訓練中の墜落 と 様々(・ω・)/
オスプレイではないけれど
米軍機による事故は沢山起きている( ̄ω ̄;)
横浜市緑区で事件が発生したのは
1977年9月27日 σ( ̄、 ̄=)
緑区は現在の青葉区だねd( ̄  ̄)
1977年は えーっと`s(・'・;)
昭和52年だね・・・( ̄. ̄;)
場所は横浜の中心部から
北西に15キロメートル程離れた荏田町
国道246号線と東名高速道路が
交差している場所
時間は 13:00を廻る頃
戦闘機ファントムが民家に墜落した
( ̄ω ̄;)
その日 米海軍厚木基地を離陸したのは
米海兵隊所属RF-4BファントムII611号機
目標は 相模湾沖を航行中の空母「ミッドウェー」
離陸直後のため燃料を満載していた
墜落の原因はエンジン火災だったらしい
乗員2名は機外に緊急脱出
パラシュートで着地した後
海上自衛隊厚木救難飛行隊の
ヘリコプターが救助 基地に帰還した
そ…そ (-。-;) ここからが問題
パイロットが脱出して
操縦士をうしなった機体は
燃えながら住宅地に墜落
周辺の家屋を炎上させたΣ(=°ω°=;ノ)ノ
横浜市立小学校では
運動会が開かれていたんだけど
校舎の屋上をかすめて
燃えながら墜落していく機体を
生徒も父母も目撃し運動会は中断
(;・_・)・_・)・_・)・_・)・_・)・_・)・_・)・・・・
この時の様子はビデオに捉えられて
TBSに提供され 報道番組で放映された
墜落地点一帯は 機体と
大量のジェット燃料が飛散
炎の海は一瞬で公園と民家を
飲みこんでしまった
一般市民9名が死傷o(_ _*)o
救いは市民の手による救助d( ̄  ̄)
救急車より先に駆け付けた
周辺住民が負傷者を
自分たちの車で病院に搬送した( ̄_ ̄ i)
助かってほしい みんなが
そう願って救助に駆け付けた *:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
残念なことに3歳と1歳の
兄弟が全身火傷で死亡
兄弟のお母さんも全身火傷で重体
他にも6名の一般市民が負傷した
事件発生と同時に米軍から連絡を受けた自衛隊は
厚木基地から救難ヘリを発進させている
事故発生から10分後だった(-。-;)
S-62J救難ヘリコプターは
13時30分頃事故現場上空に到着
既に消防車が来ているのを確認
救助対象をパイロットに切り替えた☆ヾ(-Θ-:)
パイロットを収容した救難ヘリは
再度事故現場上空に戻って
消防による放水状況を確認
援助は無用と判断して基地に帰還する
陸上の救難隊が編成され
出動準備をしていたらしいけど
消防による消火救助活動と
周辺住民の協力体制もあって
出動はしなくても大丈夫と判断
出動しなかった ヾ( ̄o ̄;)
米軍関係者はというと
約1時間後に現場に到着
現場周囲を立ち入り禁止にして
エンジン等機体を回収したそうな(・・;)
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
青葉台病院に収容された
3歳と1歳の兄弟は全身火傷
全身の痛みと渇きに
水を欲しがって泣いた
時計が0時を回って次の日
0時30分 3歳の兄が息を引き取った
最後の言葉は
"おばあちゃん、パパ ママ バイバイ"
死の直前 全てを悟っていた
1歳の弟も4時30分
お父さんに励まされ 鳩ポッポの歌を
歌いながら短すぎる一生を閉じていった
もうそこまでやってきている冬
クリスマスを夢見てサンタさんへの
手紙を一生懸命考えていたお兄ちゃん
初めてのクリスマスを楽しみにしていた
小さな小さな弟*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
兄弟に季節が巡ることはなかった
まだ26歳だった兄弟のお母さんは
全身8割に及ぶ火傷で
昭和大学藤が丘病院に収容
危篤状態になったけれど生還
皮膚移植を受けて治療を続けた
お母さんが子供達の死を
知ったのは事件から1年4か月も
経ってからの事らしい(´_`。)
お母さんは遺骨を抱いて
涙がなくなるんじゃないかって
思うくらい沢山泣いたらしい
||||||(_ _。)||||||
その後 お母さんはとっても頑張って
治療を続けたと どの記録にも書いてある
だけど想像もつかないような辛い
現実の中で 気持ちも追い詰められていった
お父さんとも離婚する事になってしまった
1982年1月26日
昭和57年だねd( ̄  ̄)
午前1時45分 国立武蔵療養所で
心因性呼吸困難により永眠
ジェット機墜落事件から4年4カ月目
お母さんにとっては無念の死だったと思う
お母さんの死を報道したNHKの
女性アナウンサーは涙ながらに
このニュースを伝えた
お葬式は離婚したお父さんが
取り仕切ってお母さんを送ってくれた
…(´・ω・`) 最後の救いだね
遺族は慰霊碑を創って横浜市に寄贈
1985年*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
"港の見える丘公園" に
お母さんと幼い兄弟をモデルにした
「愛の母子像」が設置された
そ…そ (-。-;)
この記念碑にも逸話がある
行政側は当初都市公園法の解釈を理由に
本件に関わる説明の設置を認めず
遺族側が「あふれる愛をこの子らに」と
予定していた台座の文が法に抵触すると主張
"この"を削った「あふれる愛を子らに」と変更させ
予備知識がない限り本件の記念碑であるという
認識が困難な状態の慰霊碑になってしまった
これに市民から疑問の声が相次ぎ
2002年横浜市市長となった
中田宏によって 2006年1月に
事件の概要を簡潔に記述した
碑文が設置された
像設置から碑文設置まで約21年が経過していた
中田以前の市長はというと
市民の疑問に対し説明板設置の予定はないと
繰り返すだけだった
遺族の想いより大切なのは
米軍への配慮だったんだろうか
![いつも「0-40」](https://stat.ameba.jp/user_images/20121002/08/tennisdehassuru/a0/aa/j/o0250037412216503417.jpg?caw=800)
*:..。o○☆゚・日本の空を飛ぶ米軍機:,。*:..。o○☆
見つめる先にはなにが
見えているんだろう
自衛隊が守っているのは
国民なのか 国家なのか
二度と悲惨な事故が起こらない様
幼い命が奪われることのないよう
できることは祈ることしかない
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