恐れからの自由(2)心を傷つけるのは誰? | 風天たあこのブログ
私は生来楽天的な性格なので、余り人から傷つけられたというような記憶がありません。どんな現象が目の前にやってきても、それを呼び寄せたあるいはそれを選択したのは自分だから、もし嫌だと思う現象を回避したいなら自分の選択を変えれば良いという考え方をしてきました。相手や現象を恨んだって何ら楽しくはなりませんし、恨むという想いは自分を苦しめ、結果として心身の不調和を引き起こします。そんな自らを貶めるような馬鹿馬鹿しい行為を敢えてするほど、私は自分が強くないことを知っているからです。

私は私のどんな部分も(良いと思えることだけではなく、こんなところは直したほうがいいと思えることさえ!)好きなのです。あるがままの自分を認め、愛していますから人から何を言われようと気に病むことはありません。
時には「そうよ。そんな駄目なところがあるから、私って可愛いのよね。非の打ち所もない私だったら、みんなくつろげないし楽しくないでしょ!玉に瑕があるから、それが私らしさだし、チャーミングポイントなのよ。」と笑いながら伝えます。

人から投げかけられる言葉によって傷つくという受け取り方の底には、自分への劣等感、不信感、自己卑下などの自己像に対する囚われがあるように思われます。
自分のあるがままを認め、そのままを愛し信頼しているなら、誰から何を言われようと笑って受け流すことが出来るのではないでしょうか?

平成10年頃のことだったと記憶しているのですが、黒ここさんに私宅の一部屋を使ってもらっていた当時のある日、彼が部屋から大きな声で私を呼び寄せました。
「お母さん、ちょっと腕を貸してください。」と私の手を取りました。
「いいですか、お母さん。僕は右手にナイフを持っています。イメージしてください。そのナイフでお母さんの腕を切りますよ。」彼は私の目を見つめています。一体何をしようとしているのか私には解かりません。解からないまま彼の目と行動を見つめています。
「はい、切りました!」私は腕を鋭利なナイフで切り裂かれたことをイメージしています。
しばらく私を見つめていた彼が聞いてきました。
「お母さん、痛いですか?」私は腕を見つめながら答えます、「うん、痛いよ」と。
「心はどうですか?心も痛いですか?」「えっ、心?」「そうです、心です。腕が痛いのは解かります。でも、心はどうでしょう?心も痛いですか?」・・・・・
「う~~~ん、こ・こ・ろ・は・い・た・く・な・い。」・・・・・
「そうでしょ!物理的に傷つけられた時、痛みは物理的なものであって、心は痛くないですよね。」・・・・・「そ・う・だ・ね・・・」・・・・・

何だか煙に巻かれたような意味不明な会話をして、私は自分の仕事に戻ったのです。
一体何を「当たり前」なことを大層に言ってきたのか、その時すぐには彼が言いたかったことを理解することが出来ませんでした。

その意味が解かってきたのは、その日から随分先のことでした。
病気や怪我などで肉体的に苦痛を味わう体験は誰にもあるものですが、そんな時大抵が顔を歪めて苦痛を訴え、その苦痛に心を乗っ取られてしまい、周囲に不快感を撒き散らしたりしますが、彼はそんな時いつも笑顔でいるのです。
「辛いのは身体であって心ではありませんから、心まで辛くしたり、傷つけたりする必要はないのです。僕が苦しそうな顔をしていたら、お母さんまで辛くさせてしまいます。僕はお母さんまで苦しめる必要はないと思います。」「身体が病んでいても心は健康なのですから、僕は笑っているのです。」「お母さんだって苦しんでいる僕を見るより、笑っている僕を見ているほうがいいでしょ。」

黒ここさんの言動は一致していますので、どんな時でも笑顔で対応してくれていました。そんな彼の生き方をつぶさに見ている時、これらの会話の奥にあるもう一つの真実に気づいたのです。

「人は物理的に身体を傷つけたり、傷つけられたりすることはあっても、誰も人の心を傷つけることなど出来ない。心を傷つけるのは、自分自身である。」という真実に。

自分の容姿や性格、得手不得手、善悪の観念、知識や財産の大小など、今日の自分を表現しているであろう特徴や、その特徴に対する観念などに執着していたり、守ろうとする心が自分を傷つけてしまうのではないでしょうか?

人との違いは、悪いことではなく個性です。皆が同じ顔だったり、皆が自分と同じ言動であったりしたら薄気味悪いでしょうし、自分がそこに存在している意味もなくなってきそうに感じます。一人一人が違うから楽しいし、気づきがあるし、学びがあるのだと思います。
そうした視点に立てれば、自分を表現しているあらゆることが自分であり続けるための大切な個性であり、何一つ恥じたり自己否定することはなくなってきます。だからと言って全体の調和を踏みにじってもいいですよと言っているわけではありませんので、誤解なさらないでくださいね。

「言葉」によって傷つけられると言う時、投げかけられた言葉が自分とは無縁なものであれば無視できるものです。投げかけられた言葉によって心が傷ついたと思う時、その言葉に反応してしまう自分の心の囚われが自分を傷つけているのです。
人は他人の肉体を傷つけることは出来ても、他人の心を傷つけることは出来ないのです。

我が家にはいろんなジャンルの人たちが集まってくるのですが、ある日M嬢から「友達のAさんからママには黒い部分があるから気をつけたほうがいいよと言われたの。」と聞かされました。「そう?黒い部分?ふ~~ん・・・私には何を言っているのか解からないけれど、黒でも白でも黄色でも何でもいいよ。好きに感じてくれてOKよ。それは私のことではなく、私の言動からAさんの心の囚われが創り出しただけのことだから、Aさんの問題だと思うよ。」と答えておきました。

Aさんとはそれほど会っていませんし会話もあまりしていないので、彼女の特徴を考えてみて気づきました。彼女は真剣なキリスト教徒です。私は特定の宗派に興味はなく、独学でキリスト教やユダヤ教、神道、道教など広く浅く読んだりしていました。彼女はキリスト教徒であることに強いプライドと差別意識を持っており、その囚われが大きく育っているようでした。そんな私の彼女への対応が、彼女には理解出来なかったようなのです。理解出来ない部分を黒と感じたようです。

似たような体験をいくつもしています。
以前エステティック業界で仕事をしていた時、「濱口さんて、こんな人なの・・・」「あんな人なの・・・」一体私って本当はどんな人?と自分でも可笑しくなるくらい、数え切れないほど多くのTAKAKO像が、まことしやかに動いていました。訂正する気も弁明する気も起きませんでした。人を評する時、誰でも自分の価値観や固定観念で無責任に決め付けるものだからです。

私はどんな人ですと表現できるほど自分のことをわかっている人はとても少ないと思います。日々変化していく自分のことを的確に把握することの困難さが解かれば、他人のことなど解かるはずもなく、自分の心の性向が創り出した幻想以外の何者でもないと思うからです。

人は自分の固定観念で人を決めていくようです。不徳の到りなのですが、良い噂も悪い噂も随分流されていました。そこで流されているTAKAKO像は、話す人や受け止める人が自分の心や価値観、生活観から導き出したその人の囚われを「TAKAKO」という名を利用して発表しているだけのことだと思います。つまりその人自身のことを口にされているのだと思います。
私のことを好意的に話される場合、その人の内面が穏やかで受容するゆとりを持っていらっしゃるからでしょうし、悪く話される場合その人の心の囚われがそこにあるということだと思っています。

人からの揶揄・中傷は、私自身のことではなく私の言動を受け止めているその人自身の心の在り様が創り出した幻なのです。ですから私の心は傷つくことなどありません。幻は幻として放置しておけばいずれ消えていくでしょう。むきになって抗弁しようとするとなお一層その幻は力を持ってしまうだけのように感じています。

人から何かを言われて怒りを感じたり傷ついてしまうという時、なぜそのように受け止めてしまうのか、心を鎮めて自己観察してみませんか?
原因は人の言葉ではなく、その言葉に反応してしまう自分の心(自己不信や自己卑下など)にあるように感じます。
自分の在るがままをそのままに赦し、信頼し、愛せるようになれば心を傷つけることはなくなっていきます。